当たり前すぎて、誰も教えてくれなかった。——昔の人の生活の知恵を受け継ぐということ

祖母から梅干しづくりを教わる孫

じいちゃんに聞いておけばよかった。

うなぎの仕掛けの作り方。沢のどこに沈めるのか。どの季節に、どの時間帯に。じいちゃんはぜんぶ体で知っていた。でも僕は一度も聞かなかった。聞けばいつでも教えてもらえると思っていたし、そもそも聞かなきゃいけないとも思っていなかった。

じいちゃんにとって、それは「当たり前」だった。

当たり前すぎることは伝わらない。誰も教えようとしないし、誰も聞こうとしない。そしてある日、それを知っている人がいなくなる。

書物では手に入らない生活の知恵

ばあちゃんもそうだった。

山菜が芽吹く場所。よもぎを湿布に使う手つき。火の音で温度を読む感覚。そういうものは動画では身につかない。隣に立って、一緒にやって、「ちがう、こうだ」と手を添えてもらって、初めて体が覚える。

——身体知。

頭ではなく、体が覚えている知恵。

昔の人の身体観は、いまの僕らとはまるでちがっていた。体は部品の集合ではなく、季節や土地とつながった「ひとつの流れ」として捉えられていた。湿気が多い日は体も重く、乾いた風が吹けば気も軽くなる。葛の根を掘り、煎じて飲むのも、体と自然が地続きだったからだ。

そういう感覚の延長線上に、台所の知恵があった。

便利さと引き換えに失ったもの

たしかに便利な時代になった。

IHが普及し、冷蔵庫があり、ドラッグストアがある。でも便利さと引き換えに、身体知を使う場面そのものが消えていった。使わなければ伝わらない。伝わらなければ消える。

消えていく知恵をただ惜しむだけでは、何も残らない。誰かの手元を見て、同じように手を動かし、体で覚える——。その時間そのものが、受け継ぐという行為なのだと思う。

梅干しを漬けるときの塩の量。味噌を仕込むときの温度。土のにおいで、植えるかどうかを判断する感覚。そういうものは、文字ではなく、体の奥に沈んでいく。

書くこともまた、受け継ぐことの一形式だ。調べ、考え、言葉にするたび、僕自身の中に少しずつ知恵が沈殿していく。それを読んだ誰かから他の誰かに伝わっていくかもしれない。

生活の知恵は、道具やレシピではなく、人から人へ渡される時間のようなものだ。僕はその時間を、もう一度つなぎ直したい。

葛の根を掘り、出汁を引き、ごまをすり、豆腐を固めてきた人たちがいた。その知恵は、僕という人間を経由して、未来の誰かの台所へと引き継がれていくのだろう。

静かな台所に立つと、祖父母の手元がふっとよみがえることがある。火の音、湯気の匂い、包丁の重み——。あの頃の台所と、いまの僕の台所が細い糸でつながっているように思えるのだ。

その糸を、未来へつないでいきたい。

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