数年前の元旦のことを、いまもよく思い出す。
関西の実家で年を越し、家族三人で初詣に出かけた。行き先は、わたしが赤ん坊のときにお宮参りをしてもらった神社だ。記憶があるはずがない。物心もついていなかったのだから。
なのに、境内に足を踏み入れた瞬間、名状しがたい感覚が胸にひろがった。
懐かしい。温かい。——帰ってきた。
理屈で考えれば、おかしな話だ。記憶のない場所に「帰ってくる」ことはできないはずなのに、体はたしかにそういっていた。頭よりも先に、全身がだ。
神社という場所は、なぜこんなにも不思議なのか。なぜあそこに立つと、気持ちが整うのだろう。
「元気」という言葉に隠れていたもの
少し、言葉の話をさせていただきたい。
日本語に「元気」という言葉がある。毎日当たり前のように使うが、分解すると「気が元(もと)に戻ること」だ。
では、元に戻る前の状態は何か。
それが「気枯れ(けがれ)」だ。
「穢れ」と書いて「けがれ」と読む、あの言葉。日本では昔から、毎日を生きているだけで、人の気は自然に枯れていくと考えてきた。悲しいことがあったとき。疲れ果てたとき。なんとなく気力が出ないとき。あれは気が枯れている状態なのだという。
では、枯れた気はどうすれば元に戻せるか。
そのために、神社はある。
神社という空間は、「気を元に戻す装置」として設計されている。鳥居から本殿に至るまでの一連の構造は、すべてそのためにある。はるか昔の日本人が、それを建築としてかたちにしてしまったのだ。すごいことだ。
鳥居をくぐる瞬間、スイッチが入る
鳥居は、単なる門ではない。
あれは境界だ。こちら側は日常の世界。あちら側は、神の気配が満ちる聖域。そのふたつを分かつのが、あの朱い「しるし」だ。
だから鳥居をくぐる瞬間、何かが変わる。「さあ神聖な場所に入るぞ」と頭で意識しなくても、体の方が先に気づいてしまう。姿勢がすっと伸びる。深呼吸したくなる。騒がしかった頭が、少し静かになる。気のせいではなく、何千年もかけて日本人が積みあげてきた「空間のしかけ」が働いているのだと思う。
注連縄(しめなわ)も同じ役割を持つ。神域を囲むように張られ、不浄なものの侵入を禁じる。目に見えるかたちで「ここは違う場所だ」と教えてくれる。
参道という「移行の道」
鳥居をくぐって、参道を歩く。
足の下で玉砂利がじゃりじゃりと鳴る。頭上では木々が枝を広げ、光がゆらゆら揺れる。風がすっと通り抜けていく。さっきまで聞こえていた車の音が、遠のいている。
参道の両側に立つ木々——「鎮守の森」と呼ばれる深い森は、神域を守る天然の結界だ。都市の騒音を遮断し、新鮮な空気を保ち、静けさを守る。歩くほどに「外の世界」が遠ざかり、「内の世界」へと引き込まれていく感覚。偶然ではなく、意図された空間設計なのである。
ひとつ、参道に関して覚えておきたいことがある。
真ん中は歩かないこと。
参道の中央は、神様が通る道とされている。人間は端を歩く。たったそれだけのことなのに、なぜか背筋が伸びる。「私はここに、お邪魔しています」という感覚が自然と生まれてくる。
手水の冷たさが、リセットしてくれる
参道の脇に、手水舎(ちょうずや、てみずしゃ)がある。
柄杓で水をすくい、手を清める。冬の朝なら、その冷たさは息がとまるほどだ。でもその冷たさが、心地いい。
ひんやりした水が手に触れた瞬間、何かがすっと落ちる。こころのなかの、ざらついたものが。
これは「禊(みそぎ)」の簡略版だ。古代の日本人は、全身を川や滝に沈めて心身を清めた。手水はそのかたちを小さくしたものだが、あの冷たい水にはたしかな「リセット」の力がある。
わたしが神社でしないこと
これは完全に個人の話なのだが、わたしは神社で願いごとをしない。
はやま
不思議なことに、それだけで十分に心が落ち着く。感謝を口にしたとき、人間の心は少しやわらかくなるのかもしれない。
願い事には「まだ足りない」という焦りがともなう。感謝には「いまここにある」という安心がある。どちらが「元気」に近いかは、いうまでもない。
落ち着かない神社もある
正直にいえば、どこの神社でも同じ感覚が得られるわけではない。
ごくたまに、なんとなく空気が重い神社がある。うまくいえないのだが、「妙な気」が充満しているような、居心地の悪い場所が。そういうときは、さっさと退散する(笑)
この直感を大切にしたいと思う。日本人はずっと昔から、場の気配を感じとって生きてきた。特別な霊感ではなく、自然のなかで生き抜くためのごく普通の感覚だったはずだ。
大きな災害や出来事が起きるとき、目に見えない世界が何かを伝えようとする——。そう感じた経験を持つ人は、案外多いのではないか。感じる力を、鈍らせたくはない。
台所から、筑波山に語りかける
神社についてここまで書いてきたが、実はわたしの考えは少し変わっているかもしれない。
神さまは、神社のなかだけにいるのではない。
自宅の台所の窓から、天気のいい日は筑波山が見える。わたしはその山に向かって、毎朝頭をさげる。雲に隠れて見えない日も、「今日も見守っていてください」と心のなかで話しかけている。
筑波山神社にはかれこれ10回以上は登っているが、一度も怪我をしたことがない。男体山と女体山の山の神さまのおかげだと、本気で思っている(笑)
古代の日本人は、山に神が宿ると信じていた。大きな岩にも、深い淵にも、人知を超えた自然の一切に——。神社という空間は、そういう感性を「整えるための場所」としてかたちにしたものだ。神さまそのものは、いつもどこにでもある。
台所の窓から筑波山が見えるたび、私はそんなことを思う。
身体が覚えていた場所
話を最初に戻す——。
記憶もないはずの神社で「帰ってきた」と感じた理由——それはきっと理屈を超えたところにあるのだろう。赤ん坊のわたしが、その場の気配を、神さまの存在を、何らかのかたちで受けとっていた。それが数十年の時を経て、ふっとよみがえった。
頭が覚えていなくても、体は覚えている。
そういうことが、わたしたちにはある。
神社という空間は、そういう記憶を呼び覚ます力を持っている。だからわたしたちは、何となく神社に引き寄せられる。何となく手を合わせたくなる。何となく、気持ちが整う。
その「何となく」のなかに、日本人が何千年もかけて積みあげてきた知恵が、静かに宿る。
——神社という場所はいつも、おかえり、といってくれる気がする。
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