羊羹には羊がいる——和菓子という見立ての文化

茶の湯

羊羹ようかんの中にいる羊はなんなのだ。子どもの頃、あの黒い菓子と羊がどうしても結びつかなかった。

調べてみると、答えは文字の中にあった。羹はあつものと読む。熱い汁のことだ。羹あつものに懲りて膾なますを吹く——以前の失敗に懲りて、必要以上に慎重になるということわざ——の羹である。つまり羊羹を文字どおりに読めば、羊の熱いスープなのだ。

海の向こうの大陸で、羊羹は湯気の立つ羊肉の汁物だった。鎌倉から室町にかけて、禅僧たちが点心の文化とともにそれを日本へ持ち帰った。ところが寺の台所は肉を断っている。そこで僧たちは、小豆や小麦粉や葛で羊の羹の姿を写し取ったのだ。

似て非なるもの——。精進の見立てとして生まれたものが、いまの羊羹の先祖だ。甘い菓子になったのは、それよりずっとあとのことである。

和菓子の由来をたどると、かならず「元になった別の何か」の存在に気づかされる。日本人は昔から、目の前のものにもうひとつの風景を重ねる——「見立て」が得意だった。

最中の月と腹太餅

たとえば最中もなかの名は、平安の宮中に始まる。

源順みなもとのしたごうという歌人が、水面に映る秋の名月を「今宵ぞ秋のもなかなりける」と詠んだ。最中とは、真ん中。秋のど真ん中は、中秋の名月だ。

宮中の月見の宴に出された白く丸い餅菓子を、その歌を知る貴族らが「最中の月」と呼んだ。その雅な名を菓子につけて売り出したのが、江戸は吉原の菓子屋というからなんだか愉快だが、平安の月は八百年の旅をして、遊郭で看板になったのだ。

かと思えば、大福の元の名は、「腹太餅はらぶともち」である。もともとは腹持ちのいい餅という、身も蓋もない名の塩味の食べ物だった。

それを江戸中期、小石川の後家おたよが小ぶりに作り直し、餡に砂糖を入れて「大腹餅だいふくもち」として売り出した。やがて「腹」は縁起の良い「福」に書き換えられ、大福となったという。

桜餅も見立てから

僕が好きな桜餅にも見立てが一枚、噛んでいたようだ。

桜餅の葉は、向島の長命寺の門番だった山本新六が、掃き掃除に手を焼いていた桜の落ち葉を和菓子にでもしてやれと思い、塩漬けにしたのが始まりだったとか。

ちなみに向島はいまの住まいの近所で、僕はよくうろうろしている。長命寺には娘が赤ん坊だった頃、隅田川七福神めぐりで行ったこともある。長命寺桜もちというのが名物らしいが、当時はそんなこととはつゆ知らず、おろかにも素通りしていた。今週末にでもさっそく買いに行くことにする。

思い切り脱線してしまったが、こういうのを見立てという。

もっとも茶の湯でいう見立ては、別の用途の道具を茶道具として使うことを指す。それを菓子の話に使うのはやや乱暴ではないかと、茶人たちにお叱りを受けても困る。ここから少し彼らの髭の塵を払うことにする。

茶の湯は、和菓子の立役者

和菓子を芸術にまで押し上げたのは、何を隠そう茶の湯である。

鎌倉時代、禅とともにやって来た抹茶は、もともと汁物に近い点心とともに供されていた。室町から安土桃山にかけて茶の湯として形を整えていくなかで、茶人たちは菓子にある役割を与えたのだ。

千利休が茶席に置いたのは、絢爛豪華な和菓子などではなかった。茶会記に記された利休の菓子は、麩ふの焼きという小麦粉の薄焼きや、焼き栗といった素朴なものだった。

抹茶の苦みが舌に落ちる直前、飾らない甘味が口の中に余白を作る。すると、あとからやって来る苦みが風のように立ち上がる。菓子は主役ではなく、主役を引き立てる影だった。影があるから、光は際立つ。

こうして和菓子は茶の湯に欠かせないものとなり、出しゃばらないことで奥行きと気品を身につけていった。

和菓子が庶民に届くまで

もっとも、和菓子が庶民の口に届くまでにはかなりの時間がかかった。砂糖はずっと上流階級の口に入る貴重品だったからだ。

市井の人たちが甘いものを楽しめるようになったのは、江戸も中期を過ぎてからのこと。町の屋台に大福が並び、みたらし団子が湯気を立て、祭りのたびにおはぎが丸められ、甘味はようやく町の風景の一部になっていった。

羊のスープから始まった長い旅路が、「見立て」と出会い、茶の湯の余白と出会い、こんにちの和菓子になった。

僕らはもう羊羹と聞いて、昔の禅僧のように湯気の立つ羊の羹を思い浮かべたりはしない。

それでも羊羹の中には今日も羊が一匹、静かに座っている。