その和菓子屋の近くには、その昔、赤線があった。
吉行淳之介が『原色の街』を書き、永井荷風が『墨東綺譚』に描いたのも、そのあたりだ。空襲で焼け、移転を余儀なくされ、売春防止法ができてからは娼家も消え、東京のふつうの下町になった。
けれど、地名が変わったいまも、色タイルで飾られた奇妙な造りの建物がそこかしこに残っている。わたしが以前通っていた歯科も、そんな建物のひとつだった。
なかに入ると、天井だけが異様に高い。理由は聞かなかったが、何となく察しはつく。整然とした表通りからすこし裏へまわると、路地は急に年を重ね、時代に取り残されたような家並みが立ちならぶ。東京の古い下町というのはどこも、その土地ごとの記憶を持っている。
そんな通りのはずれに、その古い和菓子屋はあった。
休日には行列ができているし、値段もそれなりにする。下町の和菓子屋のくせに——などと少し思わないでもない。だが食べてみて合点がいった。草餅を買い、家に帰る道すがらひとくちかじると、餅のしっかりとした歯ごたえのあと、強いよもぎの香りが口中いっぱいに広がった。
その余韻は、うちに帰るまで続いた。
甘味が、庶民に届くまで
和菓子の歴史をたどると、ある事実に突きあたる。
砂糖は、ずっと庶民のものではなかった。
戦国から安土桃山にかけて、ポルトガル人が持ち込んだカステラや金平糖は、将軍や豪商だけが口にできる貴重品だった。甘いものを食べるという行為そのものが、すでに特別だった。
そのころ、千利休が茶席に和菓子を組み込んだ。 抹茶の強い苦みの前に、甘さで口を整える。 脇役に徹しながら、主役を引き立てる。
江戸時代になり、砂糖が少しずつ庶民の手に届くようになると、屋台に大福がならび、おはぎが作られ、みたらし団子が人気を呼んだ。市井の人々が甘味を口にできるようになるまで、何百年もかかった。
はやま
季節を食べるという発明
いま、目の前にいただきものの雪中花がひとつある。水仙をかたどった、代表的な和菓子だ。
白くて繊細なこの菓子を眺めていて思う。和菓子とほかの菓子の違いは、「季節を食べる」という一点に尽きるのではないか。
京菓子の世界では、練り切りひとつに季節を込める。
濃いピンクは梅、淡いピンクは桜。「味甚粉」をまぶせば朝霜になり、「氷餅」を散らせば雪のなかでも咲く水仙になる。写実ではなく、あえて削ぎ落とすことで、水際立った美しさを生みだす。
そしてあとは、食べる人の想像力にゆだねる。その余白こそが、和菓子の美学だ。
和菓子には「菓銘」がある。夜舟、木守、花びら餅、雪中花——。名前を聞いただけで、日本の風物が浮かんでくる。口に入れる前から、季節の旅に連れ出される。
ふと、子ども時代の記憶がよみがえる。
夏になるとよく、水ようかんを食べた。縁側で、風鈴の音を聞きながら、きんきんに冷やした水ようかん。小豆の甘さと清涼感、風鈴の音が、いまもひとかたまりになって記憶のなかにある。
はやま
甘味には、時間が宿る
母方の祖母は、よくおはぎを作っていた。特別な材料があるわけでもない。もち米と小豆と砂糖だけで、あの甘さを作っていた。
父方の祖母は、まったく違う人だった。五人の子どもを農業だけで育て、土地を買い増すほどの倹約家。その家の食卓には、甘いものがほとんどなかった。
どちらが正しいということではない。ただ、大人になってから思い返すと、甘いものを作るという行為そのものが、誰かへの意思表示だったのだと気づく。
砂糖を使って何かを作るということは、そこに時間を使うということで、時間を使うということは、相手を大切に思うということだ。
甘味には、そういう文脈が宿っている。
草餅に戻る
話を、下町の草餅に戻そう。
あの弾力と、よもぎの強い香りは、工場の大量生産ではけっして出せない。 賞味期限はその日中。何日も日持ちするスーパーやコンビニの草餅とは、なにもかもが違っていた。
職人たちは今日も、生地の硬さ、あんの水分、その日の湿度と格闘している。 砂糖が権力者だけのものだった時代も、屋台で大福が売られた江戸の朝も、祖母がおはぎを丸めた縁側も、あの下町の店も、地続きのどこかにある。
甘味には、時間が宿る。
そのことを知っていると、ひとくちの重さが、少し変わってくる。
ぼんやりとそんなことを思いながら、目の前の雪中花をゆうに30分、飽くことなく眺めていた。あまりに美しくて、食べてしまうのが惜しい。
するとそこへ娘がやってきた。横からひょいと手を伸ばし、ぱくりとひと口で食べてしまった。
わたしの30分間の思索は、娘の咀嚼音によってかき消された。
- 和菓子には、時間が宿る——草餅と、下町に残る季節の気配(この記事)
- 食べる前に、もう味がする——和菓子の名前のこと
- 羊羹は、羊肉の汁物だった。——和菓子という見立ての文化
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