僕が時々草餅を買う和菓子屋の近くには、かつて私娼街があった。
永井荷風が『濹東綺譚』に描いた玉の井だ。往時は、銘酒を売る店という名目の売春宿が五百軒近く並んでいた。
その街は空襲で焼け、焼け出された人々の一部が一キロ南西に新しい街を作った。鳩の街である。
戦後、玉の井も少し北の焼け残った一角で再興し、新玉の井と呼ばれた。どちらの街にも文士が足しげく通い、鳩の街は吉行淳之介の短編小説「原色の街」の舞台にもなった。
もちろん作中に描かれるどぎついネオン管などはもうどこを探してもないけれど、表通りから一本裏へ回れば、時代に置き去りにされたような家並みが続き、色タイルで飾られた奇妙な造りの建物が赤線時代の名残りをとどめている。
僕が以前通っていた歯医者もたぶんそういう名残りのひとつだった。椅子に寝転がり口を開けてぼんやり天井を眺めていると、何やら妙な気分に包まれたものだ。
このあたりの路地は網の目のように入り組んでいて、斜めにうねっていたりもするものだから、越してきて二十年ほど経ったいまでも自分がどっちを向いているかわからなくなって、立ち往生することがよくある。
そういえば娘の同級生のお父さんのなかに、父親が赤線時代に用心棒をしていたという人がいた。うちで何度か飲んでいろいろ話を聞かせてもらったが、ある話になるとかならず彼は声を落とした。
どうも東京の古い下町というのは、土地ごとにいろんな記憶を抱えているらしい。
下町の和菓子屋
その下町からさほど遠くない場所に、あの和菓子屋はある。
休日には行列ができるし、値段もそれなりにする。下町の和菓子屋のくせにと思わないでもなかったけれど、食べてみて合点がいった。
草餅を買い、帰り道に一口かじってみたら、餅のしっかりした歯ごたえのあと、春風のようなよもぎの香りが口の中を吹き抜けた。余韻は家に着くまで続いた。
紙包みには、本日中にお召し上がりください、と書かれている。あの弾力とさわやかな香りは、日持ちと引き換えだったのか。何日ももつスーパーの草餅とは何もかもがちがう。
和菓子屋の朝は早い。職人は小豆を炊き、餡を仕上げる。餅や練り切りの生地を用意し、季節をかたどった上生菓子をこしらえ、夕方の片づけまで働きづめである。
一日ともたない菓子は、誰かの一日でできているのだ。
祖母のおはぎ
祖母はよくおはぎを作ってくれた。特別な材料を使うわけではない。もち米と小豆と砂糖だけである。朝から小豆を炊く匂いが家に満ちて、昼前には艶のある粒餡の俵がずらりと並んでいた。
自分が台所に立つようになってわかったが、甘味作りはとにかく時間がかかる。
夏になると水ようかんも出てきた。縁側で風鈴の音を聞きながら食べる。小豆の甘さと清涼感とちりんという鈴の音が、いまもひと塊で記憶に残っている。あれだって祖母が裏庭の山の水で冷やして、切って、出してくれたものだった。
草餅の香り
先日、あの店でまた草餅を買った。
夕方の路地を僕は少し急ぎ足で歩く。今日のうちに食べなければいけない菓子を提げて、色タイルの建物の前を通り過ぎる。
あの建物は焼け跡に建ったものだろう。それから約八十年、街の名が変わっても、住む人が入れ替わっても、まだそこに立っている。
僕が提げているものは、明日にはもう別のものになってしまう。家までの道のりのぶんだけ少しずつ固くなっていく。
家に着いた。
包みを開くと、よもぎの香りがぶわりと立つ。少し遅れて、小豆の匂いが台所に満ちた。
- 甘いものの前では、文豪も人の子だった
- 食べる前に、もう味がする——和菓子の名前のこと
- においだけが、記憶に直接届く——出汁の香りと、娘の一生の話
- 五千年の重みにむせ返る。——ごまと三世代のすり鉢の話
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- 羊羹は、羊肉の汁物だった——和菓子という見立ての文化
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