夜明け前の薄青い空気のなか、土間で足袋をはき、麦わら帽子をかぶり、竹かごを背負って山へ向かう祖父の背中があった。
祖父は松茸採りの名人で、よくこんなことをいっていた。
「やみくもに歩きまわってもあかんのやで。運やないぞ。じいちゃん、赤松の場所も松茸の生える時期もぜんぶわかっとる。大きいなったら教えたるからのう」
山から下りると着替えもせず、そのまま車でうちまで持ってきてくれた。地下足袋をはき、松茸の入った竹かごをひょいと抱えて、くわえ煙草で現われる祖父の姿がかっこよくて、自分も大きくなったら松茸採りの名人になるのだと心に決めていた。
祖父は毎年、入札に参加していた。松茸の生える山に半年ほど入山する権利をとりあうのだ。うまく競り落とした年は電話があった。「今年は松茸持ってったるからのう。楽しみに待っとれよ」
それを聞くと、わたしたち一家は踊りあがって喜んだ。なにしろ多いときは竹ざるに十数本、巨大な松茸が乗っかっていたからだ。
10月になって松茸がやってくると、まずはそのまま焼き、すだちなどをしぼって醤油でいただく。歯ごたえがたまらない。
炊飯器から立ちのぼる湯気に鼻を近づけると、森の奥の湿った土のにおいが混じっている。松茸の炊き込みは、味もにおいもほかのそれとは一線を画す。「香り松茸、味しめじ」などというけれど、わたしは同意できない。味も香りも松茸に軍配があがる。それくらいうまかった。あの香りはいまも忘れられない。
わが家には松茸専用の土瓶があった。
土瓶を火にかけると、台所にまたあの香りが立ちのぼる。祖父が持ってきた松茸で、家の空気まで秋になった。
祖父が原木で育てた椎茸なら食べられた
祖父は松茸採りだけでなく、椎茸栽培も上手でした。
近くの山裾で、椎茸の原木栽培も行なっていました。三人の子どもとその孫たち、近くの親類の家に配るだけでしたので、ほだ場(種菌を植えつける丸太を組んだ栽培地)はこじんまりとしたものでした。
当時わたしは椎茸が苦手だったのですが、祖父の椎茸だけはなぜかひと味違っていた。たぶん手塩にかけて育てている姿をそばで何度も見ていたからでしょうね。
母がバターを乗せてトースターで焼いてくれると、醤油をちょっとたらしてかぶりつく。熱々をはふはふしながら食べていると、山を歩く祖父の背中が見える気がしました。
そう、大のおじいちゃん子でした(笑)
わたしにとって祖父が育てた椎茸は、なんとなく兄弟のようにも思える特別なきのこだったのです。
はやま
松茸採りの名人にはなれずじまい
わたしが子どもだったころから松茸は高級品でしたが、これほど国産ものが品薄になり、高騰するとは思ってもみませんでした。
松茸は、赤松の根に共生するきのこ。自分で栄養をつくれません。栽培もできない。どれだけ技術が発達しても、松茸だけはいまだに自然任せなのです。
ところが日本中の里山で戦後、赤松が枯れていきました。理由はいろいろです。昔は炭焼きが盛んでしたが、石油の台頭で需要が激減。人の手が入らなくなった里山では、松林が減り、さらにマツクイムシの被害も重なった。松茸の収穫量はピーク時の数十分の一になっているそうです。
松茸はいま、庶民の手の届かない食材になりました。国産ものはスーパーにならぶこともほとんどありません。見かけても値札を見て黙って通り過ぎる。あの竹かごの光景が、遠い夢のようです。
松茸のない秋は、わたしにとっては花火のない夏、コーヒーのない朝、ケーキのない誕生日のようなもの。結局、祖父のような松茸採り名人にはなれずじまいでしたが、祖父の背中はいまも秋になるとまぶたの裏に浮かんできます。
肝心の松茸がないんだからしかたないとは思ってみても、心残りでなりません。
はやま
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