大豆、万歳! 節分の日、変化の達人を鬼にぶつけられる話

大豆と大豆食品

湯気の立つお味噌汁。娘が箸で豆腐をつかんで口に運ぶ。中央には納豆のパック。妻がパリパリ開封し、醤油をどばっとかける。黒い池から納豆が顔を出している。高血圧だというのに。

わたしは煮物に箸を伸ばす。根菜と高野豆腐のおにしめ。好物である。

納豆を飲み終えた妻が、大皿のニラレバ炒めをほうばる。妻の口の端でうごめくもやしを見つめながら、わたしはビールをひと口、そっと流し込む。それから三本の指で枝豆を二さやつまみ、口に放り込んだ。

いつもと変わらぬわが家の食卓。でもその日、気づいてしまったのです。

——うちの食卓、大豆まみれじゃないか。

豆腐、油揚げ、味噌、納豆、醤油、高野豆腐、もやし、枝豆……どれもこれも大豆からできている。

大豆は「変化の達人」

台所に立っていると、どこを見ても大豆がいます。

豆腐、味噌、醤油、納豆、厚揚げ、豆乳、きなこ、おから……。ぜんぶ大豆。冷蔵庫にも、棚にも、調味料ボトルにも、 気がつけばしれっと紛れ込んでいる。でもふだん、わたしたちにそれを意識させません。

和食界きっての「変化へんげの達人」ですね。

すごいのは、 変身してもしっかりと「大豆の仕事」をしているところ。いろんな角度から料理の味を支え、家族の体を整え、食卓のリズムを刻む。海藻が食卓という舞台の黒衣なら、大豆は同じ舞台の「影の演出家」といえます。

きょうからもう頭があがりません。

はやま

全世界で生産される大豆のうち、食用になるのはわずか6%ほど。あとは圧搾油か家畜の飼料になります。世界最大の大豆生産国であるアメリカの、1人当たりの年間摂取量はわずか40g。日本人1人が1日に食べる量にもおよばない。してみると、大豆を「変身の天才」に育てたのはわたしたち。頭があがらないのは大豆のほうでした(笑)

豆腐は、海と畑から生まれた奇跡

不思議な食べ物です。

見た感じは、ただの白い塊。触るとぷるぷるしていて、食べてもほとんど味がしない。でもそこにあるだけで食卓に安心感が生まれます。

日本人で豆腐が苦手という人はまずいません。少なくともわたしは会ったことがない。みそ汁、湯豆腐、冷や奴――。出しゃばらないのにしゃんとした存在感があって、毎日食べていても飽きがこない。

豆腐の正体は、ほとんどが水です。8~9割が水で、残りのわずかな大豆成分を 「にがり」が固めています。にがりというのは、海水から塩を取りだしたあとに残る、塩化マグネシウムなどのミネラル分のこと。

畑で育った大豆の煮汁を、海のミネラルが固める——。海藻の記事でも書きましたが、畑と海はいつも思わぬところでつながっています。豆腐は、そのいちばんやさしいかたちのひとつだと思います。

あの白いぷるぷるは、畑と海から生まれた奇跡の食べ物なのです。

はやま

食卓の東の横綱が海藻なら、西の横綱は大豆で決まりですね。

納豆のねばねばは、友情のあかし

地獄の窯でぐつぐつと煮ても、タクラマカン砂漠でからっからに乾いても、北極でかちんこちんに凍りついても、平気で生きていられる。なにせ宇宙に連れだしても生きていたくらい。

ただ強いだけではありません。

大豆の表面で、菌同士が「手をつなぐ」ように増えていく。だから糸を引く。混ぜるとさらにねばねばの糸が増えるのは、菌たちが必死に手をつないでいるから。などと想像をたくましくしていると、ほほえましいものです。

妻が納豆をかきまぜているとき、その話をしてみました。ふうんといいながら、ズルズルッと一気に飲み干していました。納豆菌のほうが意志の疎通がうまくいきそうでした。

味噌の風味は、時間がつくる

材料だけ見ればとてもシンプル。大豆、塩、麹――たったこれだけです。

それなのに、味噌蔵によって風味がかなり違います。甘い味噌、まろやかな味噌もあれば、しょっぱい味噌もある。白い味噌があれば、赤い味噌もある。こうした違いを生むのは、おもに時間です。

白味噌は数日から数か月、赤味噌は数か月から数年。同じ材料でも、時間が長くなるほど色は濃く、味は深くなる。時間がつくる食べ物だからです。

暗い蔵のなかで味噌は静かに呼吸しています。麹菌がゆっくりと大豆を分解し、塩が味を引き締める。乳酸菌や酵母が発酵を進めていく。そうして時間がすべてを丸くする。調和をつくりだすのです。

はやま

白味噌と赤味噌は熟成期間の差による分類です。ほかの分け方には、米味噌(大豆と米麹と塩)、麦みそ(大豆と麦麹と塩)、豆味噌(大豆と豆麹と塩)など。

醤油は料理の世界の名脇役

食卓のどこにでもいるのに、主役にはなりえない。いろんな料理に華を添え、焼き魚の横でしれっと待機、 煮物の鍋のなかでは 「まあまあ、あっしが調停役を務めますから」とでもいうように、ひかえめに仕事をしてくれる。

でも醤油がないと、和食はとたんに成り立たない。

醤油は、料理の名脇役です。舞台の裏で淡々と段取りを整え、味の輪郭をつくり、料理全体を落ちつかせてくれる。煮る、焼く、漬ける、和える、かける——どんな場面でも、確実に味を支えてくれます。

その正体はほとんどが大豆。 発酵し、時間をかけて、あの力強い黒い液体に生まれ変わるのです。

枝豆は未成熟の大豆、でも完成した子ども

大豆としてはまだ「未熟児」です。本来であればこれから栄養を溜めこみ、色づき、成熟していくところを、その直前に刈りとられてしまった哀れな食材です。

でも、枝豆がひとつの食材として立派に一本立ちしているのは、のん兵衛ならだれもが知るところ。塩ゆでにして、ビールの横に置けば、それだけで夏の夕方という風物詩が完成します。

娘は小さいころ、枝豆を勢いよく押しだして口に放り込むのが好きでした。最初にわたしがやって見せたからですが、子どもは不器用なもの。ぴゅっと床に飛ばしては笑いながら拾って食べ、今度は妻の顔めがけて飛んでいって爆笑する。

妻は鬼のような顔をしていましたが、枝豆も子どもも「未完成の大人」ではなく、「完成した子ども」ですね。

いまもお弁当には欠かせないひと品です。

豆まきの夜に思う——鬼はどっちだ

節分の夜になると、妻が炒り大豆を買ってきます。始まるのです。恒例、悪夢の豆まきが——。

鬼はわたし。豆を投げるのはわが家の女性陣。妻は「まく」というより「投げる」というのがぴったりの腕さばきで、炒り大豆をふりかぶります。

それを合図にわたしは逃げる。ところがいくら逃げてもここは都会のマンション。壁際にすぐに追い込まれて、「鬼は外!」の号令とともに妻と娘から集中砲火を浴びます。

わが家のうるおいは急激に減少し、その恐ろしさたるや、まるでアパッチ族に追われる七面鳥の心境です。

いったいどっちが鬼なのか——。

さて、大豆にはもっと古い物語があります。

『古事記』には、須佐之男命(すさのおのみこと)が大宜都比売(おおげつひめ)という食物の女神を殺した際、その女神のお尻から大豆が生まれたと書かれています。神の亡骸から五穀が誕生したとする「五穀起源神話」の一部です。

ほかにも、古くからお正月には「マメ(健康)」に過ごせるようにと、歯固めに豆を食べる風習もありましたし、「まめ」という言葉には「魔目(まめ)を打ち、魔滅(まめ)に通じる」という役割もあるそうです。

ちょいと調べただけでも、こんな話が次から次へと出てくる。

大豆とはことほどさように端倪すべからざる食材なのです。

はやま

アリストテレスの『形而上学』の一行目に、「人間は生まれながらにして知ることを欲している」と書いてあります。そして知れば知るほど、その対象に対して愛着がわいてくる。大豆、万歳!