空は、嘘のふるさと——和語の名づけの遊び心と愛嬌

そらと言葉

昔の人の命名の仕方には、遊び心や愛嬌があったと思う。

ものの外見や機能から事務的に名づけを行なうのではなく、それが自分たちに何をもたらしてくれるかで名前をつけてしまうのだ。

だからだろうか。和語の自然物の言葉はしばしば、対象そのものとその働きの境目がとろりと溶けている。

わかりやすいのが月だ。

空に浮かぶあの月と、ひと月ふた月の月が、同じ言葉なのは偶然ではない。昔は月の満ち欠けを見て、時の流れを数えていた。つまり月は天体であると同時に暦そのものでもあった。空を見上げることが、そのままカレンダーをめくることだったわけだ。

雨とあめが同じ音を分け合っているのも同じ理由だろう。

天から落ちてくるものだから雨。空の上のほうと、そこから降ってくる恵みをひとつの音でまとめてしまった。区別する必要などなかったのだ。というより、区別しないほうがその頃の生活の実感にぴったりだったのだと思う。

つかみどころがないのはそらだ。

なにしろ中身がない。手を伸ばしても何もつかめない。けれど昔の人はこの何もない感じを面白がり、あちこちに貸し出すことにした。

根も葉もない作り話は、空言そらごと。聞こえたような気がすることを空耳そらみみ。ぽろりと流すいつわりの涙は、空涙そらなみだ。要するに空は、中身のないことやでまかせの代名詞になってしまった。嘘やほらのふるさとはあの青空だったのだ。

面白いのは、その同じ空が暗記を表わしていることだ。

本を見ずにすらすら唱えることを、そらんじる、そらで言う、そら覚えなどという。何もないところから言葉を取り出してくるからだろうか。

空から何かを引っ張ってくるという点で、詩を暗唱することも嘘をつくことも、昔の人にとっては大差なかったのかもしれない。頭の中の空っぽの棚に、嘘と名文が仲良く収まっていく様子を思い浮かべるとなんともおかしみがある。

いちばん素直なのは水だ。

あの透きとおった清らかさをそのまま他の言葉に分けてやっている。

若々しく生き生きしたものを、みずみずしい。汚れを流して身を清めることは、みそぎ。神社の入り口の手洗い場は、手水舎てみずや。水は名詞であると同時に、穢れのなさという感覚の象徴でもあったのだ。

こうして並べてみると、和語の自然物の言葉には対象に対するやさしいまなざしがあるように思う。月に時間を、雨に恵みを、水に清らかさを重ね、そのあげく空には人間のつくちっぽけな嘘まで住まわせてやった。

名づけるというのは本来、線を引いて分けることのはずなのに、昔の人たちは世界と自分たちのあいだの線をそっと消して回っていたように見える。

晴れた日に空を見上げ、何か気の利いた文句がふと思い浮かんだら、誰かがずっと昔に置いた詩をつかまえたのかもしれない。

あるいは理由もなくいたずらな気持ちになったとしたら——。これまで人々が空に置いてきた、無数の嘘やほらの仕業だろう。