腹で決めて、胸で泣く——和語の言葉遣づかいから感情の居場所を読み解く

胸に手をあてる人

人はどこで喜怒哀楽を感じているのか。

いまなら脳ということになるだろうが、和語——やまとことばの言葉づかいを見ていると、どうやら昔の人たちは感情や心模様を頭でなく、胴体のあちこちに間借りさせていたようだ。

腹は、本音と覚悟の総本山である。

自分の考えを包み隠さず打ち明けることを「腹を割る」という。良からぬことを企んでいる人を「腹黒い」、器の大きな人を「太っ腹」、迷いを断ち切って決断することを「腹を決める」「腹を括る」という。

怒りも腹から湧いてくる。「腹が立つ」は、腹の中で恐ろしい顔をした不動明王か何かがむくりと立ち上がる。「はらわたが煮えくり返る」で、内臓はぐつぐつ沸騰してしまう。人の本性や心構えはぜんぶ、腹に置いてあるらしい。

胸は、喜びや悲しみをそのまま受け取る係だ。

うれしいことがあれば高鳴り、悲しいことがあれば締めつけられ、ほっとすればなで下ろす。誇らしいときは胸を張り、感動したら胸を打つ。

腹が本音を隠し持つ奥座敷なら、胸は気持ちが最初に表われる玄関口といえるだろう。だから涙や嗚咽はいつも胸のあたりから込み上げてくるのか。

それなら心は何をしているのか。

うろうろしている。腹や胸とちがい、心には決まった居場所がない。新聞社でいえば遊軍記者のようなものだ。社屋をふらふらしながら、腹や胸が受け持つ取材を気の向くままに手伝っている。「心が決まる」「心が騒ぐ」「心が動く」「心が弾む」——こんなふうに。

ただし、心には心にしかない特別な仕事がある。天気を予想するのである。

「心が晴れる」「心が曇る」「心が乱れる」「心が沈む」——。どうやら人間は体の中にも小さな空を抱えているらしい。晴れたり曇ったりと気ままに移ろうものだから、時々、心変わりもするが、心を合わせたり入れ替えたりといったこともできる。

それからもうひとつ、忘れてならないのが肝だ。

「肝を冷やす」「肝が小さい」「肝が太い」「肝を据える」——。恐れという厄介な感情とそれを呑みこむ度胸を切り盛りしている。

やまとことばの時代、頭はいまのようにひいきされていなかったようだ。なにしろ前もって考え抜いた計画のことを腹案と呼ぶくらいだ。考えることすら腹に横取りされている。

胸で感じ、腹で決め、肝を据えて、心は好きに移ろう……。頭にいたっては、和語の世では、烏帽子えぼしをのせるくらいしか使い道がなかったようである。

しかし、いまの僕らから見てもこれは腑に落ちる話である。

しあわせなときに胸のあたりがふわっと浮き立つのも、腹を抱えて笑うときに腹が先にくつくつと動き出すのも、体が実感として知っていることだ。

感情に住所を与えたのではなく、体が反応する場所をそのまま言葉に写し取った。昔の人たちは、自分たちの体の声にいまよりずっと真剣に耳を傾けていたのだ。

理由もないのに胸がざわめく夜や、なぜか腹の据わらない朝がある。きっとあれは、胴体のどこかが頭のあずかり知らぬところですでに答えを出しているのだ。僕らが気づくよりずっと前に——。