素足のことば——和語と漢語と外来語

素足

日本語は三着の服を持っていると思う。

仕事に着ていく漢語のスーツ、流行りものの外来語、家でくつろぐときの和語、この三つだ。

仕事では「効率的にコミットする」などと言っている人も、足の小指を箪笥たんすの角にぶつけたとき、口をついて出るのは「いたっ」だろう。「くっ……小指がフィードバックをくれたな。改善の余地ありだ」とは言わない。

痛みもうれしさもさびしさも、心のいちばん奥から出てくる言葉は大抵、和語(やまとことば)——つまり素足の言葉である。

この素足組は見た目こそ地味だけれど、千年単位のとんでもなく古い記憶を足の裏に溜め込んでいる。

たとえば「母」。この方、ずっと昔は「ぱぱ」に近い音で呼ばれていた。は行の音は、大昔は唇をしっかり閉じる「ぱ」で、それが「ふぁ」になり、いまの「は」へとやわらいでいった。唇の力が、千年以上かけて抜けていったわけだ。

だから子どもがお母さんを「ぱぱ」と呼んでも、それはまちがいではなく、ただ千年ばかり生まれるのが早かっただけと言えなくもない。

色の話も興味深い。

日本語でそのまま「い」をつけて形容詞になれる色はたった四つしかない。赤い、黒い、白い、青い。緑いとも紫いとも言えない。この四つはそれぞれ、明、暗、顕(はっきり)、漠(ぼんやり)から来たといわれる。

大昔の人は世界をまず、明るい、暗い、はっきり、ぼんやりの四つに分けた。色というより、光の見え方そのものを言葉にしていたのだ。

素足の言葉——和語のいちばんの働き手は、たぶん「ありがとう」だろう。もとは「有り難し」、つまり「めったに起きない」という意味だった。

あなたがこうしてくれるのは、当たり前ではない、とてもめずらしいことなのです——。感謝とは、奇跡の目撃報告だったのだ。毎日何度も口にする「ありがとう」が、実は「あり得ない」と言っているのだと思うと、一言の重みが増すような気がする。

こうして足の裏を覗いてみると、素足の言葉はどれも古い時代を歩いてきた足跡を持っている。

スーツの漢語がきりりと物事を切り分け、外来語が新しい風を運んでくる一方、和語はずっと家にいて、痛みや色、めったに起きない奇跡をそっと預かり続けてきた。

だから、うまく言えない気持ちがあるときは、無理に立派な服を着せなくていいのだと思う。素足のままで、「うれしい」「さびしい」「ありがとう」。それで伝わるのだ。

言葉というのは案外、裸足のほうが遠くまで走れるものらしい。