台所に立つ。
鍋に水を張る。昆布を沈めながら、「そういえば最近、昆布の値段があがったな」と思う。弱火にかけて、しばらく待つ。やがて台所に、あのふわっとした香りが満ちてくる。
においを嗅いだ瞬間、値段のことなんてどうでもよくなる。
いいにおいだ。
眠い朝でも、昆布のにおいを嗅ぐと「あ、今日もなんとかなるか」と思えてくる。
味見する。
……うまい。
ふと考える。どうして、こんなにうまいのか。甘くない、しょっぱくない、すっぱくもない。でもたしかに「うまい」。この味は、いったいなんなのか——。
妻が買ってきた昆布が、すべての始まりだった
116年前、まったく同じように台所で昆布を眺めていた男がいました。
明治40年(1907年)の春のことです。
東京帝国大学の化学者・池田菊苗は、妻の貞が買ってきた一束のだし昆布を眺めながら、ある既視感にとらわれていました。
この味、どこかで感じたことがあるぞ——。
思い当たったのは、8年前のドイツ留学でした。ライプチヒ大学で学んでいた池田は、そこで生まれて初めてトマトやアスパラガス、チーズや肉料理を口にした。驚いたのは、その味です。日本では感じたことのない、でもなぜか懐かしいような、体がほっとするような味があった。
そしてその味が、いま目の前の昆布だしのなかにある。
甘味、塩味。酸味、苦味――古来から人間が知っていたこの4つの基本味のどれとも違う、もうひとつの味。
池田はその正体を突きとめようと、実験室にこもりました。
12キロの昆布から、30グラム
何度も試み、何度も失敗する。助手を巻き込みながら試行を重ねたすえ、1908年2月、池田はついに答えを手にします。
12キログラムの昆布を煮出し、煮詰め、結晶化させて取り出した物質——わずか30グラム。米袋ひとつぶん以上の昆布から、たったスプーン2杯分の結晶。家でやったらガス代が大変なことになります(笑)
その正体は「グルタミン酸」という物質でした。池田はこの味に「うま味」と名前をつけました。甘味、酸味、塩味、苦味に続く、第五の基本味として。
はやま
同年7月、池田はこの発見を特許として登録。のちに「味の素」として商品化され、日本中の台所へ届けられることになります。
そしてこんな言葉を残しています。
「学術上より見れば、余の発明は頗る簡単なる事柄なりし」
要するに「たいしたことじゃなかった」といっている。世界を変えた発見をしておきながら、謙遜ですね。好感が持てます。
どうやら、この感覚はわたしだけではなかったようで——ドイツからの帰り道、ロンドンに数か月滞在した池田は、下宿先でひとりの文学青年と出会います。夏目漱石です。
漱石は博学多識な池田にすっかり感銘を受けてしまい、その後、愛弟子の寺田寅彦に宛てた手紙のなかでこの出会いを書き残しています。
偶然の発見か、必然の発見か
「妻が買ってきた昆布がきっかけだった」
池田自身がそう書き残しているので、これが通説になっています。なんとなくドラマチックな話ですね。妻のひと束の昆布が、偉大な発見につながった。
でも近年、これに異を唱える説もあるとか。
池田は京都の出身です。京都の料理は昆布だしが命。子どものころから当たり前のように昆布だしの味噌汁を飲み、昆布だしで炊いたご飯を食べて育った。
だとすれば、「妻の昆布」は偶然のきっかけでなく、幼いころから体に染み込んでいたものが、ドイツ留学を経てついに「言葉」になった瞬間だったのではないか。
はやま
日本人は、1200年間「知らずに知っていた」
池田菊苗が「うま味」と名付けたのは1907年のことですが、日本人が昆布だしを使い始めたのは奈良時代ごろといわれています。1200年以上前から、わたしたちの祖先はこの味を使い、受け継ぎ、台所から台所へと伝えてきた。
名前も知らないまま。正体も分からないまま。でもたしかに「おいしいぞ」と感じながら。
うちの娘も、味噌汁を飲むときは何もいわないけれど、たぶん1200年前の誰かと同じ顔をしている。うちの母も、味噌汁を飲むときだけは機嫌がよかった。理由は知らない。でも、そういうものなのだと思う。
お母さんが娘に伝え、娘がまたその娘に伝え、誰も「グルタミン酸が云々」などといわなくても、だしは途絶えることなく日本の台所に生き続けた。
池田の発見は、その「知らずに知っていたもの」に初めて名前をつけた瞬間だったわけです。
はやま
「うま味」は、いま世界語になっている
「うま味」はいま、世界の料理人の共通語になっています。
ミシュランの星付きシェフたちが「umami」を競い、食の研究者たちが「fifth taste(第五の味)」として論文を書く。「tsunami(津波)」「emoji(絵文字)」と同じように、日本語がそのまま国際語になった数少ない言葉のひとつです。
でも「umami」が世界に認められるまでには、池田の発見から実に80年近くかかりました。1985年、ハワイで開かれた国際シンポジウムでようやく科学的に認定され、21世紀に入って急速に世界へ広まった。
ひと足飛びにはいかなかった。
今日の味噌汁が、昨日と少し違って見える
昆布を水に沈めるとき、わたしはたまに思います。
この味を、1200年前の誰かも感じた。京都の子どもだった池田菊苗も感じた。ドイツのレストランで皿を前にした若い化学者も、「あ、これ」と思った。
うま味は発見されたのではなく、ずっとそこにあった。
あなたが毎朝つくる味噌汁のなかに、味噌とならんで、今日もある。名前がつく前から、ずっと——。
はやま
参考:うま味インフォメーションセンター、国立国会図書館「本の万華鏡 第17回 日本のだし文化とうま味の発見」、味の素グループ公式サイト
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