静かな水は、遠い時間からやってくる——日本の食卓を支える、大地の記憶

湧き水

名水百選に選ばれている水どころを取材して回ったことがある。

山間の湧き水、深井戸、伏流水。場所が変わるたび、水は別の顔を見せた。 丸さ、硬さ、温度、口に含んだ瞬間の感触、広がり方、飲み込むときの喉の感触——そういうものに微妙なちがいがあった。

水は無味無臭だと思っていたが、まちがいだったと気づいた。水には味がある。僕が知らなかっただけだった。

良い水のある土地では、水道水もちがっていた。水源が清澄な湧き水や伏流水なら、塩素も化学処理も最小限しか使わないで済む。蛇口から出てくる水でさえ、どこか甘かった。東京の水道水とは、比べものにならなかった。

水は、数十年の旅をする

雨が山に降る。地面に染み込み、岩盤の隙間を縫って、砂や泥、火山灰の層に何度もろ過されながら、 少しずつ少しずつ地中を旅していく。 その旅には数年、長ければ数十年かかることもある。

湧き水を一口飲むとき、僕らが口にしているのは、はるか以前に降った雨だ。 その土地の岩が、土が、気の遠くなる時間をかけ磨き上げてきたものである。

水と一緒に僕らはその土地の時間を飲んでいる——。取材から帰る車の中で、そんなことを思った。水の甘さの正体は、ミネラルと時間と、大地の記憶だったのだ。

はやま

水どころの人たちは、自分たちの水を語るとき、みな少しだけ胸を張る。そして感謝を忘れない。山の神さまや水の神さまを祀る祠もよく見かけました。

水が合わない

水どころのとある旅館で、女将さんから話を聞いた。母屋の奥にあるダイニングで、お茶をいただきながらの取材だった。よく笑う人だった。話も弾んだ。

聞けば、若かりしころ東京に住んでいたことがあるとか。「ここ、のつく田舎でしょう。都会に憧れがあって(笑)」

ところがしばらくして、全身にひどい湿疹が出たという。 治療を続けても、一向に良くならない。働きながら悩み続け、結局、三十代で故郷に帰ることにしたという。「戻ってきたら、治っていったの」

女将さんは四十代後半か五十手前。透き通るような肌をしていた。屈託のない人だったが、その話をするときだけふと遠くを見るような目をしていた。それから静かにこう言った。

「水が合わないっていう話、やっぱりあると思うのよね」

比喩でなく、文字通りの意味で。科学的に証明はできない。でもその言葉は、するりと僕の中に入ってきた。あの静かな間のあとで言われたから、なおさらだった。

はやま

水の硬度がちがうと、肌や体への影響が出ることもあると聞きます。ヨーロッパの硬水が肌に合わず、日本に帰ってきたら肌が落ち着いた。そんな話を聞いたこともある。女将さんが経験したことも、根拠のない話ではないのかもしれません。

深井戸、天然わさび、手打ち蕎麦

別の土地の取材で、忘れられない人に会った。

自宅の庭に数百万円かけて深井戸を掘った男性だ。趣味は蕎麦打ち。汲み上げた井戸水で敷地内に小川を作り、わさびまで育てていた。わさびは、冷たくてきれいな湧水が豊富にないと育たない。清流のシンボルと言っていい。

そのわさびを添え、同じ井戸水でこねて茹がいた蕎麦をごちそうになった。おろし金で、円を描くようにしてわさびをおろす。ツンと鼻を突く青い香りが漂ってくる。

「さあ、食べてみてください」

できたての手打ち蕎麦におろしたての天然わさびを乗せ、一気に口の中へ。ズズズッ。

「わ」と声が出た。

蕎麦の香ばしい風味とわさびの鮮烈な辛み、つゆの複雑なうま味。複雑なのに明解。潔い。——うまい。

はやま

あれは道楽ではなく、水への本気の愛情でしたね。

田舎の祖父母の家の湧き水

子どものころ、祖父母の家に山の湧き水があった。裏庭が山に面しており、そこから染み出す水を大きなひのきの水桶に引いていた。かけ流しの澄みきった水である。

夏になると、野菜やスイカをその中に浸して冷やしていた。 祖母が切ってくれた真っ赤なスイカにかぶりつくと、歯が痛くなるくらい果肉はキンキンに冷えており、口いっぱいに甘みがぶわっと広がった。

その記憶があるからだろう。 旅先やキャンプ場で湧き水が汲める場所があると、僕は大きな容器を持って行き、汲んで持ち帰る。その水でご飯を炊くと、ぜんぜんちがう。明らかに米がうまくなる。

日本の食を作る、日本の軟水

日本の水は、ほとんどが軟水だ。ミネラルの少ない、やわらかい水である。たとえば昆布のグルタミン酸など出汁のうま味は、軟水のほうがよく引き出せる。硬水だとミネラルが邪魔をし、うま味が抽出されにくい。

日本の出汁が透明で繊細なのは、この国が軟水の国だからでもある。

米にしても、軟水のほうが甘みが出やすい。ご飯を炊くときの水が長く語られてきたのも、きっとそのせいだ。

火は語り、水は沈黙する

火は揺れ、爆ぜ、においを放ち、記憶を呼び覚ます。火は語る。

だが、水は何も言わない。数十年かけて地中を旅し、台所の蛇口から静かに出てくる。沸いても湯気を立てても、それでも何も語らない。料理の最初にも最後にも水がある。米を研ぐとき、出汁を取るとき、皿を洗うとき、 水はただ流れていく。

火と水は、料理の両輪だ。主張するのは火だけで、水はいつも黙っている。その沈黙のなかで、すべてを支えている。

水を沸かすとき、少しだけその音を聞いてみてほしい。やがて湯になるその水は、数十年前に山に降りそそいだ雨が、大地をゆっくりと旅してきたものなのだ。

何も言わず、台所まで届いたのだ。

はやま

ぼこぼこ、シャンシャン、ぐらぐら——。火に出会ったときだけ、水は声をあげます。沸かした瞬間、あんなにも騒ぐ(笑) でもあれは、水の本質ではありません。沈黙のなかに潜んでいたエネルギーが、火によって解放されるだけ。水はやっぱり、静かな存在なのです。