日本晴れだった。空には一点の雲もない。鹿児島湾に浮かぶ、桜島の荒々しい山容がくっきり見える。水面は日差しを受けて、きらきらと輝いている。
その朝、僕が案内されたのは、高台に数え切れないほどの壺が整然と並ぶ、露天の醸造場だった。壺は大きなもので高さ一メートルほど。日光と雨と風にさらされながら、一年以上かけて発酵、熟成していくという。
「これが黒酢です」
それを聞いたときは正直、面食らった。なにしろ一般的な醸造蔵が用いる温度管理用のタンクはここにはひとつもない。発酵促進用の添加物も使わない。壺に米と麹を仕込んでおけば、あとは敷地に昔から棲む菌が勝手にお酢を醸してくれるのだという。
老舗酒蔵の蔵つき酵母の話を彷彿させた。
——ここでも主役は菌か。しかしそれで百年、二百年と商いを続けてきたとは恐れ入る。
杜氏が小さな柄杓で壺から酢をすくって、グラスに注いでくれた。色は深い琥珀色である。一口なめると、酸っぱさのなかに甘みとコクが立ち上がった。知っているお酢とは別物であった。
帰りに瓶詰めを十本ほどいただいた。他にも荷物があったから、歯を食いしばって東京に持ち帰ったのはいい思い出だ。料理に使っても薄めて飲んでもうまかった。あっという間に台所から消えたので、東京の店で探してみたが置いてあるところはなかった。が、それからしばらくして東京のスーパーで見かけるようになった。
この記事に書いていること
お酢は発酵食品
お酢は発酵食品である。米や麦などの穀類、りんごやぶどうなどの果実の醸造酒を、酢酸菌がさらに発酵させてできる。つまり酒から生まれる。
日本でお酢の醸造が始まったのは大和時代で、江戸時代には調味料として全国に広がっていった。味噌や醤油、日本酒と同じで、麹菌と微生物の働きを借りた、日本の伝統発酵食品のひとつだ。
良質のお酢には、酢酸菌や有機酸、アミノ酸が豊富に含まれている。血糖値の上昇をゆるやかにする、疲労回復を助ける、腸の働きを整えるといった働きが研究で報告されている。毎日の料理に使うものだから、何を選ぶかは長い目で見ると大きな差になる。
黒酢——時間が醸す
そう考えて、我が家の台所には黒酢を置いている。先に書いたとおり、薩摩の伝統的な製法——素焼きの壺に米と米麹、地下水を仕込み、野外で一年から五年ものあいだ熟成させたお酢だ。
壺の中では麹菌、乳酸菌、酵母、酢酸菌が共同で働き、ゆっくりと黒酢を醸し、熟成させていく。昼間は太陽で温められ、夜には冷える。季節の変化を何度もくぐり抜けることで、複雑なうま味とコクが生まれるという。工場で短期間に造る酢とは、根本的に成り立ちがちがう。
この黒酢はアミノ酸が豊富で、他のお酢と比べると実にまろやかだ。我が家では料理用というより、炭酸で薄めて健康酢としていただくことがほとんど。値は張るが、本物を一度味わうと引き返せない。
純米酢——台所の相棒
日常使いのお酢として使っているのは、純米酢だ。原料は黒酢と同じで、米と米麹だけ。こちらもそれなりに時間をかけて発酵、熟成している。黒酢ほどではないが、十分にうま味があり、まろやかだ。なにより料理の邪魔をしない。寿司飯、酢の物、ドレッシング、煮物の隠し味——。どんな用途にも向いている。
穀物酢——効率重視で安価
お酢の中でもっとも安く手に入るのが穀物酢だ。穀物酢は原料に米のほか、小麦やとうもろこしなどを使う。さらに製造工程で醸造アルコールを添加して短期間で酸味を出す方法が一般的である。長期熟成を経ずに大量に作ることができる。
安いのには理由がある。それが悪いというつもりは毛頭ない。けれど毎日のように使うものだから、我が家の台所では穀物酢の出番はない。純米酢とも一瓶当たり数百円ほどしか変わらない。
バルサミコ酢、ワインビネガー
バルサミコ酢やワインビネガーはたまに使う。ドレッシングやマリネ、洋風料理との相性がすばらしく良いからだ。とくにバルサミコ酢はぶどう果汁を長期熟成させたイタリアの伝統的なお酢で、深いコクと甘みがある。ただし値が張る。だからワインビネガーで代用することも少なくない。ワインビネガーの原料もぶどうで、すっきりした酸味と香りが特徴だ。
毎日使うものだから、少しだけこだわる
毎日使うものや消費量の多いものは、なるべく手ごろなもので済ませたい。僕も以前はそう考えていた。けれど、あるとき気がついたのだ。逆ではないか。体に入る量の多いものこそ、質の良いものを使うべきではないかと。
野ざらしの壺越しに桜島を眺めていた朝——。目に見えない微生物たちが何年もの歳月をかけて醸し出す物語の一端に触れ、言葉を吞み込んだことはいまも忘れない。台所にそういうものがあるのは、なんだか気分がいい。
- 答えを持つ酢と、問いかけてくる酢
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