「一汁一菜」を知ってますか? 料理をもっとラクにする、土井善晴さんの哲学

一汁一菜

食のことで迷走していた時期がある。

真っ先に試したのは、玄米菜食だった。ぼそぼそした玄米を野菜の煮物なんかと一緒に口に放りこんで、一口で八十回くらい噛む。顎が痛くなった。それ以上に、家族がうまそうに肉を頬張る隣で、毎食見た目も味も地味な食べ物を延々と咀嚼している我が身の惨めさに耐えきれず、すぐやめてしまった。

念のため断っておくが、玄米が硬かったのは、僕の炊き方が下手だったからだ。それでもお通じは良くなって、毎日プッププップと元気なおならが出ていた。

そのあとグルテンフリー、糖質制限、高アルカリ食と続けざまに挑戦した。そのころには僕はもう、背中にまな板を突っ込んだようにかちんこちんになっていて、頭の中に知識は山ほどあるのに、なぜか食事を重ねるたびに不安になるという、なかなかに本末転倒な状態だった。

そんな時期にたまたま手に取ったのが、料理研究家の土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』だった。

読んでみて感じたのは、「そうだよなあ」という静かな感慨であった。長年、食の迷宮をさまよってきた身に、本の中にある言葉のいくつかがじわっと滲み込んでいった。

「家庭料理はおいしくなくていい」にちょっと驚く

土井さんが言っていることをざっくりまとめると、「毎日の食事に完璧を求めなくていい」ということだ。

ご飯と味噌汁と漬け物、それだけでいいというのが一汁一菜の基本的な思想。季節の野菜を味噌汁に放り込むだけで一食が成立する。献立を考えるストレスから解放される、シンプルきわまりない提案である。

「家庭料理はおいしくなくていい」という言葉に最初は驚いた。でも手を抜けということではない。脳を刺激するような強い味ではなく、体が喜ぶ穏やかさを味わおうではないか、ということだ。

そんな言葉のひとつひとつに、他の料理研究家にはない地肌の良さを感じた。SNSやテレビには手の込んだ料理があふれ返っている。「ハレ」(お祝いや特別な日)と「ケ」(日常)という日本の古い概念で言うなら、いまは毎日がハレの日のような錯覚に陥りやすい時代だ。ハレとケの区別を取り戻そう——。土井さんの主張の根っこには、そういう思想がある。

一汁三菜に落ち着いた

正直に言うと、一汁一菜は続かなかった。食べ盛りの子どもがいて、大食……おっと失礼、わんぱくな妻もいる。それに単純にちょっと物足りない。食後に妻がお菓子をパクパク食べ始めたとき、「あ、これは足りてないな」と悟った。無言のフィードバックは雄弁だった。

それで自然に落ち着いたのが、一汁三菜だった。

ご飯と味噌汁に加えて、肉か魚のメインを一品、ぬか漬け、それと作り置きのおかずをひとつ。ひじきの炒め煮だったり、きんぴらごぼうだったり、根菜の煮物だったり。とにかく冷蔵庫で三、四日持つものを週に一、二度作る。これが我が家の食卓の基本形となった。

作り置きとぬか漬けがあれば、その日やることはメインを一品作るだけ。ぬか漬けは取り出して切るだけだし、案外回せるものだ。土井さんの思想の延長線上に、自分なりの型を見つけたという感じだろうか。

完璧にやる必要はない

一汁一菜と出会って思ったのは、料理に限らず、何かを始めるときの姿勢についてだ。「完璧にやれないから、うちはいいや」なのか「核にある考え方だけ借りて、自分流にカスタマイズしてみよう」と思うか。

後者のほうがずっと面白いと僕は思う。土井さんが伝えたかったのもそういうことだろう。スタイルではなく、思想を受け取ってほしいと。

毎日の食事は、当たり前だけれど毎日続いていく。だからこそ完璧でなくていい。しんどい時はお湯を沸かして味噌汁だけでもかまわない。そういう「逃げ場」を作っておくことが、長く続けるいちばんの秘訣だ。

一汁一菜を知って和食に戻り、ぬか床を育て始めて十数年——。ぬか床は何度か再起不能になって仕込み直したりもしたけれど、それでも続いているということ自体、自分に合っていた証拠だと思う。おかげでお腹の調子もいい。

毎日、プッププップだ。

はやま

土井さんの本は、ご飯の炊き方から味噌の種類、季節ごとの具材の選び方まで、懇切丁寧に書かれています。料理の入門書としてもいいし、食や暮らしの哲学書としても読める。きれいなカラー写真もたくさん入っています。料理を通して、暮らしを丁寧に楽しむヒントが詰まっています。昔の本ですが、まだ読んだことがない方はぜひ手に取ってみてください。