裏返したスマホ——ごちそうさまのあと、なぜすぐ手が伸びるのか

スマホと食事

「ふう。ごちそうさまでした」

お椀を置いて、手を合わせる。

「今日もうまかった」

「うんうん。わたし鯛は苦手だけど、この酒蒸しだけはイケる」

娘が調子を合わせてくれる。

「うちの料理人は腕がいいね」

「一流のシェフは自分を褒めたりしないんじゃない」

娘は笑って立ち上がり、空いた皿を流しへ運んでいった。

昼間、歯医者で治療してもらった奥歯がまだなじんでおらず、噛むたびに小さな違和感があった。それでも酒蒸しはうまかったし、腹も十分に満たされている。

そう思った次の瞬間、僕の手は勝手にテーブルのスマホをつかんで画面をタップしていた。タイムラインが流れ始める。誰かのポスト、見出しだけのニュース、知らない人の怒り……。

口の中に残っていた出汁の余韻も、器を持ったときの手触りも、ブルーライトの中に一瞬で消えてしまった。

この記事に書いていること

その日の残りもの

「パパ、お茶淹れた。スマホ置きなよ」

娘の声でわれに返った。娘が僕の前に湯呑みを置いてくれる。緑茶の匂いがぷんと立ちのぼる。

「お、ありがとう」僕はスマホを裏返してテーブルに置いた。

湯呑みから立ちのぼる湯気を見ていたら、昼間の歯科での出来事が頭に浮かんできた。

診察台の上で、歯科衛生士の女性が僕に聞いた。

「歯ぎしりします?」

「しますよ。歯ぎしりも歯嚙みも。毎日くやしいことばかりなもんで」

軽口のつもりだった。けれど返事がなかった。治療用ライトの白い光の中に沈黙が満ちた。顔が赤らむのがわかったが、口を開けたまま仰向けに固定されているので逃げ場がない。

彼女は何事もなかったように器具を持ち替え、僕は天井のライトを見つめ続けていた。

あまりにきまりが悪くて、帰宅中も帰宅後も食卓についてからも、あの数秒間のことを一度も思い出していなかった。というより、思い出さないようにしていたといったほうが正しい。

無意識にスマホをつかんだ理由もこれでようやくわかった。退屈でも習慣でもなく、あの小さなばつの悪さを直視するのを避けていたにすぎない。

空腹が満たされると心がゆるむ。その安心感のなかで、心は一日に溜まった残りものをゆっくり片づけ始める。

心の消化時間

口の中の咀嚼は、飲み込んでしまえば終わる。でも心の咀嚼は、ごちそうさまのあとにようやく始まる。今日の酒蒸しはうまかったという満足も、ライトの下の気まずさも、そこで同じように噛みくだかれていく。

それを待たずに新しいものを流し込めば、噛みかけのものはそのまま沈んで心の底に残る。わけもなく機嫌が良くないということが時々あるが、半分くらいはたぶんそのせいだ。

台所から水の音がする。娘が流しで洗い物をしている。

湯呑みを一口すすった。渋い。娘をちらっと見ると、どう? と唇の動きだけで聞くので、笑ってうなずき返した。

テーブルの上のスマホは、裏返ったまま沈黙している。湯気が消えたあとに残った空気はやわらかかった。