出汁の匂いというお守り——匂いだけが、記憶に直接届く

夕方になると、頭とワタをとった煮干しを数個、昆布とともに鍋に放り込む。水を張って、ガス台に火をつける。しばらくすると磯の香のような、それでいてどこか遠い日の夕景を思い出させる匂いが立ちのぼってくる。

胸の奥がふっとゆるむ。

子どもの頃、夕方になると決まって台所からトントントンという包丁の音が聞こえてきた。しばらくすると煮干しと昆布の香が漂ってくる。その匂いをかぐと、不思議な安堵感に包まれたものだ。

匂いだけが、脳の奥まで直接届く

あの安堵感は、いまも僕のなかで生きている。大人になって、仕事でうまくいかないことやいやなことがあった日でも、帰宅して玄関で出汁の匂いを嗅ぐと、ほっとする感じがあった。理屈より先に、体がゆるむのだ。

これには、ちゃんとした理由がある。

人間の感覚のうち、視覚、聴覚、触覚、味覚の四つは、僕たちがそれを認識するまえに一度「視床」という中継地点を経る。受けつけでひと呼吸置いてから、認識の部屋に通されるようなものだ。

ところが嗅覚だけはちがう。

視床を通らず、直接、扁桃体と海馬へ届く。つまり受けつけなしに、感情と記憶の部屋へ入り込む。匂いを嗅いだ瞬間、数十年前の光景が目の前にありありとよみがえるのは、このためだ。匂いだけが、時間も空間も飛び越えて、あの日の夕方へ僕たちを連れていく。

嗅覚を失うと、家が遠のく

嗅覚を失った人の多くが、食べ物の味気なさとともに、「家」への帰属意識の揺らぎを訴えたという報告がある。

嗅覚障害と孤独感の関係は、以前から研究者のあいだで指摘されてきた。僕たちはふだん意識せず、自分の家の匂い、家族の匂い、台所の匂いを通して、家を「居場所」として認識しているらしい。匂いが消えると、家はどこか心もとない場所になる。

我が家の出汁

さて、昨日の話だ。

娘が遅い時間に帰ってきた。たまたま電車が一緒になったとかで、妻と二人並んでの帰宅だった。「ただいま」が、やけにそっけない。

「なんか暗いけど、機嫌悪いの?」と聞くと、「精一杯明るく言ったつもり」とすげない返事が来た。横で妻が小さく言う。「学校で何かあったみたいよ」

僕は娘に言った。「わかった。ただパパはさっきからお前のためにおいしいものをいろいろ作ってる。一日のうち、パパと言葉を交わす時間は限られてるんだから、そのときくらいはやさしくしておくれ」

娘が少し笑った。

その晩はカレーだった。カレーの日、娘はふだん味噌汁を飲まない。だから作らないのだが、昨日はたまたま作ってあった。娘はカレーを食べ、その味噌汁を飲んだ。顔つきがちょっとやわらかくなった。そんな気がした。

出汁の匂いが効いたのだと言い張るつもりはない。ただ、うまくいかない日の子どもを迎えるものが、この家には匂いごとある。そのことを、僕は少し頼もしく思っている。

顆粒だしには、匂いがほとんどない。便利さに文句はないが、あれでは記憶に何も残らない。だからわが家は、今日も煮干しと昆布で出汁をとる。娘がいつか家を出て、どこかの町で煮干しと昆布の匂いにふいに出会ったとき、思い出す場所が、この台所であってほしいからだ。

先のことはわからない。娘がどこでどんな暮らしをしているかも。何かにつまずいて、一人でがんばらなければいけない夜だって、来るかもしれない。

でも、そんな夜のどこかで出汁の香りがしたら。

うちの台所の風景と、「大丈夫」という感覚が、彼女をそっと包んでくれる気がする。匂いは、親が子どもに持たせてやれる、目に見えないお守りなのだ。

今日も夕方になったら、鍋に水を張る。煮干しと昆布を放り込んで、火をつける。

お守りの仕込みは、いつも夕方の台所で行なわれている。