父の手づくりクッキーより、ポテチのほうがおいしいといった娘へ

味噌汁とぽてち

スーパーのオーガニックコーナーで、僕は真剣に成分表示を睨みつけていた。

化学調味料不使用、国産の有機小麦、てんさい糖を使ったクッキー。「これなら体にやさしいし、おやつにちょうどいいだろう」「いや、待て待て。量が少なすぎる。これじゃ腹の足しにならない。あっという間に食べ終えて、ほかのお菓子に手が伸びる」

——結局、手づくりすることにした。

食の専門家として、そして父親として、娘の口に入るものにそれなりのこだわりを持って、彼女を育ててきたつもりだった。

だが、高校生になった娘は、僕が差し出したその「やさしくて正しいクッキー」を一枚かじり、ふう、と息をついてこういったのだ。

「パパ、ごめん。おいしいんだけど……あたし、友だちと学校帰りに食べるポテトチップスのほうが、正直百倍おいしいって思っちゃうんだよね」

……百倍。

ドサリ、と胸のなかで何かが崩れ落ちる音がした。父親としての、そして食のプロとしての、小さな、しかし決定的な敗北の瞬間だった。

「正しさ」や「健康」を計る物差しなら、僕の選んだクッキーの圧勝だ。しかし、娘の表情は、あのジャンクで、油ギッシュで、強烈な旨味調味料をまとったポテトチップスに、完全に心を奪われていることを物語っていた。

だが、僕はそこで「体に悪いからやめなさい」と怒る気にはなれなかった。 責めるどころか、娘のその言葉をきっかけに、僕の記憶は一気に三十数年前の放課後へとトリップしてしまったのだ。

人生には「無駄」が必要

思い出すのは、夕暮れの部活帰り。小遣いを出しあって買った、ピザやハンバーガー、袋を開けた瞬間に暴力的な匂いを放つポテトチップス。買い食いが見つかれば先生に怒られるというスリルも含めて、あの「体に悪いもの」たちは、どうしてあんなにもキラキラと輝いていたのだろう。

僕たちは、栄養素だけで生きているわけじゃない。友達と同じジャンクフードを囲んで「うまいな」と笑いあうあの時間、あの匂い、あのジャンクな味の記憶こそが、思春期という脆くて不器用な季節の、かけがえのない潤滑油だったのだ。健康という「正しさ」だけで、人間はつくられていない。

高校生のころ、ちょっと憧れていた同郷の英雄、白須次郎は「プリンシプルを持って生きれば、人生に迷うことはない」といったが、人は立派な教科書だけで生きられるわけでもない。僕にしても若気の至りで人にいえないことのひとつやふたつ、三つや四つ、九つや十はある。

……いや、十は盛った。

こんなことわざもある。

——子供叱るな、来た道じゃ 老人笑うな、ゆく道じゃ 

娘はいま、かつての僕がそうだったように、親の用意した安全な檻から一歩外へ踏み出し、自分の舌で世界を味わっている最中なのだ。そう思えば、この敗北感もどこか愛おしく思えてくる。

味噌汁の匂いに誘われて

台所に立ち、夕飯の味噌汁の出汁を引く。 鰹節と昆布の香りが、やさしく湯気とともに立ちのぼる。ポテトチップスの刺激的な匂いに比べたら、あまりにも静かで、地味な匂いだ。

いまの彼女には、この出汁の深みよりも、コンソメパンチのパンチ力のほうが刺さるのだろう。それでいい。

いつか彼女が大人になって、都会のスピードに疲れたとき。あるいは、ジャンクな刺激のあとに、ふと心に小さな空白を感じたとき。そのときに、このわが家の味噌汁の匂いを思い出して、帰ってくればそれでいい。

「今日の味噌汁、いい匂いじゃん」

リビングから、スマホを片手に娘がのぞき込んできた。「だろ? 仕上げにちょっとネギ多めにしとくよ」

僕はそういって笑いながら、鍋の火を止めた。

……まあ、味噌汁は百倍とはいわれなかったから、よしとするか。