パパなんか嫌い、といわれて落ち込む夜に。——思春期の「距離」と、父親ができるたったひとつのこと

父と息子

「パパなんか嫌い」——そのひと言で、胸の奥がずしんと沈む。

仕事で疲れて帰ってきて、家では家族のために動いて、それでも子どもからそんな言葉を浴びせられると、父親は静かに傷つく。世界中のパパが経験してきた「儀式」のようなものだ。

でも、安心してほしい。嫌われているわけではない。むしろ、子どもが成長している証拠なのだ。

「嫌い」といわれたこと、僕はない

正直にいうと、僕は娘から「嫌い」といわれたことがない。 ただ、「あれ、最近ちょっと避けられてる……?」「ぜんぜん話しかけてこないな」「なんだか、よそよそしくて冷たい気がするぞ」——こういう「微妙な距離」を感じることはある。

「パパ、大っ嫌い!」こんなドラマのような大絶叫なら、「反抗期だな」と諦めもつく。だが、あの静かで不穏な距離感は、胸の奥を静かに削りとっていく。

でも、しばらくすると娘はふつうに戻る。というか、お腹が減っているときに好物を出すと、一瞬でリセットされるのだ。その笑顔を見ると、 さっきまでの距離感が嘘のように雲散霧消する。

思春期特有の、父親への微妙な感情は、 食卓の湯気で溶けていくのかもしれない。

娘は比較的、情緒が安定している

うちの娘に、反抗期らしい反抗期はほとんどない。いまのところは。ただ妻にはきつい物言いをすることがある。けれど、先週末は一緒にコメダ珈琲へ行ってシロノワールを食べていたし、今週末は二人で買い出しに行き、そのまま花火大会に直行するらしい。

基本的に仲がいい。高校生の娘の情緒が、高校時代の僕のようにぐらぐらしていないのは、毎日の食べ物のおかげも少しはあるのだと思う。

でもそれ以上に、娘との関係と、自分が反抗期だったころの両親との関係から学んだことも大きいと感じている。

娘が不愛想なとき、やらないこと

娘がよそよそしいとき、 僕は必要最低限のことしか話しかけないようにしている。

中学生のころは口を出しすぎた。娘に愛想がない、話しかけても返事が短い、こちらを見ない——そういうとき、つい反応してしまっていた。「どうした」「何かあったのか」「なんでパパに冷たいの」

それで口論になることが幾度となくあった。娘は学校のことで頭がいっぱいだったのかもしれない。その日の気分がよくなかっただけかもしれない。父親がいちいち反応するから、火に油を注ぐ結果になっていたのではないか。

そんなふうにして、僕は少しずつ学んでいった。

子どもが距離をとりたいときは、 親も少し離れたほうがいい。悪いことではない。これは成長のプロセスだ。距離を詰めようとしないことが、距離を保つ唯一の方法なのかもしれないぞと。

「いってあげたいこと」「いってやりたいこと」

このところ娘は試験期間中で、ベッドに入る時間が深夜の三時や四時になっていた。以前の僕なら、「もっと早く始めなさい」 「一夜漬けは記憶に残らない」「日頃からコツコツやるべき」 と口を出していたことだろう。

もちろん正論である。正論であるから、指摘したくなる。子育てをしていると、こういう正論が絶えず頭に浮かぶ。寝るのが遅い。散らかっている。スマホばかり見ている。いつまで洗面所にいるんだ。少しは家事を手伝いなさい——。

子どもの行動に「粗」を見つけると、親はつい口を出したくなる生き物だ。そんなとき僕は、自分にこう問いかけるようにしている。これは子どものために「いってあげたいこと」か、それとも自分のために「いってやりたいこと」か、と。

すると小言や説教のわりと多くは、実は「子どものため」でなく「自分のため」だったりする。正直にそれを認めてみると、拍子抜けするくらいあっさりと黙っていられるようになった。

大人の世界でも同じだ。 「いってやりたいこと」は、口にしないほうがいい。

「パパなんか嫌い」は、成長の合図

子どもは、親を嫌っているわけではない。自分の世界を広げているだけだ。その過程で、親に対して距離をとったり、冷たくしたり、ときには「嫌い」といったりする。

でもそれは、親離れの練習みたいなものだと思う。親ができることはたったひとつ。「追わないこと」——。

問い詰めたところで、思春期の複雑な心のトゲは抜けない。子どもがそっけないとき、親は嫌われているのではないかと焦り、無理に距離を詰めようとしたり、機嫌を損ねて見放したりしがちだ。だが、子どもは親が思うよりもずっとたくましく、自分の世界を生きている。

追わない。責めない。必要なときだけそっと寄り添う。距離をとる子どもを、そのまま受けとめる。それでいいのではないだろうか。

食卓は、いつも静かに味方をしてくれる

子どもがどれだけ距離をとっても、食卓には嘘がない。ぶすっとしている日でも、娘のお腹は減るのである。

好物を出すと、娘の顔が変わる。「ありがとう!」そういって、食卓にさっと座る。ひと口食べて「おいしいです!」と笑顔を見せる。昨日だってそうだ。僕の特製「蕎麦屋の親子丼」を腹ペコの娘の前にドンと置いたら、顔がパッと輝いた。

思春期特有の、父親への微妙な感情も、好物のならぶ食卓の前ではきれいにリセットされる。

偶然ではないと思う。食卓は、言葉を使わなくていい場所だ。おいしいものが目の前にある。それだけで、余計な感情が溶けていく。

お腹が減って、おいしいものを食べて、うれしそうに笑う。その瞬間、 親子の距離はふっと縮まる。食卓は、親子関係を「中庸」に戻してくれる場所なのである。

材料(二人分):鶏もも肉100g、卵4個、玉ねぎ中半分、つゆ(水60cccc、みりん60cc、醤油35cc、砂糖小さじ1杯、かつお節1パック)

  • 鶏もも肉を2㎝角にカット。玉ねぎは薄切りに。
  • フライパンにつゆの材料と鶏肉、玉ねぎを入れ、中火で煮る。
  • 鶏肉に火が通ったら、弱中火にして、溶いた卵を2/3まわしかける。
  • そのまま1分待つ。
  • 残りの溶き卵を入れて、さらに1分待つ。それから火を止めて蓋をする。
  • 1分間、余熱で火を通したら完成。
  • つゆごと器に盛り、お好みで紅生姜を添えて召しあがれ。

最後に

「パパなんか嫌い」といわれて落ち込む夜——。その痛みは本物だ。でも、子どもはパパを嫌ってなんかいない。ただ、成長しているのだ。

追わず、責めず、 必要なときにだけ、そっと寄り添う。父親として肩をいからせ、正しいことを語る必要などはない。ただ、そこにいて、好物を温めておけばいい——。いまはそう思う。

口を閉じることは、あきらめでも無関心でもない。信じて待つ。それも立派な、父親の仕事だろう。

子どもがおいしいものを頬張って、食卓で笑っていてくれたら十分だ。