娘といっしょに遊ぶのは、わたしが楽しいからだ——「子どものため」に遊んでいませんか?

親子登山

木曽駒ヶ岳のテント場で、娘が寝袋にもぐりこみながら言いました。

「ねえパパ、今回も変なこと起きるかな?」

娘とは過去にもあちこちの山に登ってきました。そのたびというわけでもありませんが、わたしたちは時々、山行中に不思議な出来事に遭遇しました。うまく説明できませんが、たしかに「何か」が起きた——。それを娘は「変なこと」と呼んでいて、わたしといるときだけそれが起きることを知っていました。

「起きるかもね」とわたしは答えました。「パパ、昔からそういうの多いの知ってるだろ。お前といるとなおさらだ」

娘は呆れた顔をしながらも、少し誇らしそうに笑っていました。その顔を見て、ふと思いました。この子はいま、楽しんでいるのだろうか、と。ついで思いました——。でもまあ、わたしが楽しいからいいや、と(笑)

「子どものために」の息苦しさ

子どものころ、父に遊園地へ連れて行ってもらったことがあります。

父は当時、電車の運転士をしていて、日勤と夜勤を繰り返す日々を送っていました。その日はたぶん夜勤明けだった。明らかに疲れた顔をしていました。

それでも「家族サービス」という言葉を胸に、わたしと妹と母を車に乗せて出かけてくれた。遊園地で父は、ずっと寡黙でした。本当は家でごろごろしていたかったんだろうなと、子ども心にわかりました。

ありがたい、とは思いました。でもどこか切なかった。父の笑顔が、楽しそうには見えなかったからです。

はやま

「子どものために」という言葉が出た瞬間に、何かがずれるんですよね。提供する側と受け取る側に分かれてしまう。いっしょに楽しんでいる、という感じがない。

だからというわけでもありませんが、わたしは、娘が生まれてから一度も「子どものために」どこかへ出かけたことがありません。尾瀬の湿原も、木曽駒の稜線も、全部わたしが行きたかった場所です。娘を連れて行くとき、心の中にあったのは「この景色を見せてやりたい」ではなく「この景色をいっしょに見たい」でした。

本気の顔は、隠せない

尾瀬ヶ原へ向かう木道を歩いていたときのことです。

湿原が開けた瞬間、わたしは立ちどまって、しばらく動けませんでした。山々に囲まれた広々とした平原、風に揺れる草、青い空——。言葉を失いました。娘が「パパ、どうしたの」と声をかけてきたとき、わたしは笑っていました。心の底から。

その顔を見て、娘も笑いました。理由はわからなくても、大人が本気で喜んでいる。それが伝わったんだと思います。

はやま

子どもって、しっかり見てますね。親のテンションが本物かどうか、正確に察知する。「子どものために連れてきた」という顔と、「自分が楽しくて連れてきた」という顔は、全然違う。隠せない(笑)

山で地図を開くとき、テント場を設営して夕飯を作るとき、眺望が開けた場所で写真を撮っているとき——。わたしの顔には、たぶん本気がみなぎっている(笑) 娘はそれを見て、「ああ、パパはいま、本当に楽しんでいるんだな」と直感する。そして娘も、本気で楽しもうとする。そういう連鎖が、山では起きていた気がします。

遅刻してもいいじゃないか

平日に学校を休ませて、山へ連れて行った話をすると、たまに驚かれます。「え、学校休ませたの?」と。ときにはまるで犯罪者でも見るかのように(笑)。尾瀬に娘と二人でテント泊に行ったときも、平日に小学生を連れているせいで、奇異な目で見られることがありました。ひそひそ声で何か言われることも。

でもわたしは、小学校を二日休んだことより、鹿の声が響きわたる、あの夜の湿原のほうがずっと大事だと思うのです。

はやま

糸井重里さんが宮崎駿さんとの対談で、子どもの遅刻について「生真面目に悩んだ」という話をしていて、ちょっと驚きました。そんな生真面目な人だったのかと(笑)。わたしには、子どもの遅刻や欠席で悩むという発想が最初からなかった。もし学校に行きたくなくなったら無理して行かなくていい、家で勉強を教えると宣言していたくらいです。まあ、これはいじめに遭った場合を想定してのことですが(笑)

解放し合う関係

司馬遼太郎さんが宮崎駿さんとの対談で、「子どもは大人の父だ」という言葉を紹介していました。イギリスの作家の言葉だそうです。

子どもが幸せになると、まわりの大人も解放されていく——そういう意味に、わたしは受けとりました。

大人になると、楽しむことに理由がいるようになります。これは意味があるか、時間の無駄ではないか——そういう計算が、いつの間にか入り込んでくる。子どもにはそれがない。ただおもしろいから走る、ただきれいだから見る、ただうれしいから笑う。

娘といっしょに山を歩いていると、そういう感覚を思い出させてもらえます。理由なく楽しんでいい、という許可を、子どもからもらっている気がする。どこかの山の頂上で風を浴びながら、ふと思いました。ああ、わたしはいま、娘に解放されているんだな、と。

変なことが起きる人生

テント場で娘が「明日、変なこと起きるかな?」と聞いたとき、わたしは少し考えてから答えました。

「起きるかもしれないし、起きないかもしれない。でも、パパといると変なことが起きやすいのはたしかだ(笑)」

娘は笑いながら、「うん、知ってる」と言った。

自分のことを完璧な親だと思ったことはただの一度もありません。むしろ欠陥だらけと思う。ただ、一瞬一瞬を大切にして、本気で楽しんだり驚いたりして、たまには「変なこと」にも本気で向き合ってきた(笑)——そんな姿を、娘は隣で見てきた。それが何かの種になっているとしたら、とてもうれしいのです。

「子どものために」何かをしてあげようと思うより、自分が楽しいことに子どもを巻き込む。その結果として、子どもも楽しい。それでいいんじゃないかと、長い時間をかけて娘が教えてくれました。

はやま

家族サービスという言葉は、もう使わないほうがいいと思う。サービスじゃなくて、いっしょに遊んでるだけなんだから。子どもに解放してもらってるだけなんだから。

木曽駒の夜、娘は「明日も変なこと起きるといいね」と言って眠りました。わたしも同じことを思いながら、星を見上げていました。ああ、楽しいなあ——。そう思いながら。