ママ友関係や比較によるプレッシャー——哲学者三人に相談してみたら

悩んでいるママ

スマホを開いて、ため息が出た。

またあの人だ。手作りのキャラ弁、丁寧に盛りつけられた朝食、笑顔で遊ぶ子どもたち。写真の端に映り込んだリビングは、いつ見ても片付いている。

「うちの子たち、今日も元気いっぱいです♡」

いいね、がならぶ。コメント欄には「すごーい!」「尊敬します!」の声。

画面を閉じて、自分の台所を見た。シンクには朝の食器がまだ残っている。床には昨日脱ぎ散らかした子どもの靴下。今朝も時間がなくて、冷凍食品を詰めただけのお弁当を持たせた。

「わたし、ダメな母親なのかな」

そんな言葉が、静かに心の中に落ちてくる。

はやま

SNSを見るたびに自分が小さくなっていく——そんな経験、ありませんか。ママ友との比較、キラキラした育児投稿、「ちゃんとした母親」像との距離。比べることをやめたいのに、やめられない。

でも、これはあなたが弱いからではありません。そして、あなただけの問題でもありません。

今日は三人の哲学者に、この悩みをぶつけてみました。サルトル、ジラール、デモクリトス。時代も場所も違う三人ですが、それぞれの視点から、あなたを縛っている「見えない檻」を解き明かしてくれます。

サルトルの答え:「他人のまなざしが、あなたを凍らせています」

まず登場するのは、20世紀フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトル。実存主義の代表的な思想家で、「人間は自由の刑に処されている」という言葉で知られています。カフェで執筆し、議論し、生涯にわたって「自由とは何か」を問い続けた人物です。

彼はこう言うでしょう。

「SNSやママ友の視線の中にいるとき、あなたは自分を『見られる対象』として凍りつかせています。他人の評価の中に、あなたの真実は一滴も存在しません」

サルトルが生涯をかけて追求したテーマのひとつが、「他者のまなざし」です。彼は、他人の視線が自分を「物」に変えてしまう恐怖を鋭く描きました。

想像してみてください。公園で誰もいないと思って、ベンチでぼんやりしていたとします。その瞬間、あなたは自由です。何も気にせず、ただそこにいる。

ところが、誰かの視線を感じた瞬間——。あなたは「見られているわたし」に変わる。背筋が伸び、表情が整い、「ちゃんとした人」を演じ始める。自由だった存在が、他人の評価という型にはめられて、固まってしまうのです。

SNSは、この「まなざし」を24時間365日、休みなく浴びせ続ける装置です。画面の向こうには何千、何万という「目」があり、あなたを評価し、比較し、ジャッジしている——そう感じさせる。

でもサルトルはここで、こう言い切ります。

「地獄とは他人のことだ」

これはつまり、「他人の物差しで自分を測るのをやめなさい」という、究極の解放宣言です。

スマートフォンの画面を閉じた瞬間に、その地獄は消滅します。あなたの自由が戻ってきます。他人の評価という「まなざし」から解放された、本来のあなたが、そこにいます。

はやま

他人の目を気にしているかぎり、あなたは「自分」ではなく「他人が見ているわたし」を生きることになる。サルトルはそれを「自己欺瞞(不誠実)」と呼びました。自分に嘘をついて生きるのをやめなさい、ということです。

ジラールの答え:「それは本当に、あなたが欲しいものですか?」

次に登場するのは、20世紀のフランス出身の思想家、ルネ・ジラール。比較文学者でありながら、人間の欲望の本質を鋭く見抜いた哲学者です。彼の理論は、文学、心理学、社会学にまで影響を与えました。

彼はこう言うでしょう。

「あなたが『羨ましい』と思っているそのキラキラした生活は、あなたの本心から望むものではなく、単なる『模倣』にすぎません」

ジラールの最も重要な洞察が、「模倣的欲望(ミメティック・デザイア)」という概念です。彼はこう主張しました——。人間の欲望は、自分の内側から自然に湧き出るものではない。わたしたちは、他人が欲しがっているものを見て、「ああ、私もあれが欲しい」と思い込んでいるだけだ、と。

たとえば、子どもを見ているとよくわかります。おもちゃがたくさんあるのに、友達が手に取ったおもちゃを突然欲しがる。それまで見向きもしなかったのに。

大人も同じなのです。

あのママ友の手作りお弁当、丁寧な暮らし、整った家——。本当にあなたが心の底から望んでいるものでしょうか? 「あの人が持っているから」「みんながやっているから」欲しくなっているだけではないですか?

ジラールは、この「模倣の連鎖」が人間社会の争いや苦しみの源だと見抜きました。誰かを「モデル(お手本)」にした瞬間、あなたはその人と競争を始めてしまう。そして、決して勝てない戦いに自分を投げ込んでしまうのです。

SNSのキラキラ投稿は、完璧な「モデル」の宝庫です。でもそれは、誰かが切り取った「最高の一瞬」であって、その人の真実ではありません。あなたはその切り取られた一瞬と、自分の24時間すべてを比べて、苦しんでいる。

ジラールの答えは明快です——。模倣の連鎖から降りなさい。

あなたが本当に欲しているのは、「他人のような生活」ではなく、「自分自身であることの安らぎ」ではないでしょうか。

はやま

「あの人みたいになりたい」と思った瞬間、あなたは自分を見失い始めています。ジラールの理論は、その仕組みを教えてくれますね。

デモクリトスの答え:「今ここにあるものに、目を向けてください」

三人目は、古代ギリシャの哲学者、デモクリトス。紀元前5世紀に生きた人物で、原子論の創始者として知られていますが、同時に「幸福とは何か」を深く考えた思想家でもあります。

彼はこう言うでしょう。

「他人と比較して自分を卑下するのではなく、自分よりも困難な状況にある存在を思い、今あるものに感謝しなさい」

デモクリトスが追求したのは「エウテュミア」——心の平穏、快活さという状態です。彼は、幸福は金銭や物の中にあるのではなく、魂の中にあると説きました。

心の平穏を乱すものは何か? 自分の能力を超えたものばかりに目を向けること、他人の幸運ばかりを羨むことだと。

考えてもみてください。SNSに流れてくる投稿は、すべて「ハイライト」です。その人の最高の瞬間、一番きれいに見える角度、完璧に整った一場面。失敗も、疲れも、イライラも、そこにはありません。

あなたは、自分の「舞台裏」と、他人の「ハイライト」を比べている。これは、とてつもなく不公平な戦いです。

デモクリトスはこう問いかけるでしょう——。今、あなたの目の前には何がありますか?

一杯のお茶。子どもの寝顔。朝の光。疲れて眠っている自分の体。

それらは、キラキラしていないかもしれない。SNSに投稿するほどのものではないかもしれない。でも、それは確かにここに「ある」もの。誰かの承認がなくても、そこに存在している、あなただけの充足です。

SNSのハイライトは、あなたの手には届きません。でも今、手のひらで包んでいる温かい茶碗は、確かにあなたのものです。

はやま

デモクリトスの言う「エウテュミア」は、大げさな幸福ではありません。ただ静かに、今ここにあるものに満足する、それだけ。

最後に葉山から:「画面の光」より「お腹の火」を

サルトル、ジラール、デモクリトス——。三者三様の答えが出そろいました。

どれかひとつ、「ああ、そうか」と思えるものがあれば、それで十分です。

さて、最後に台所の話をさせてください。

他人の視線を気にしすぎているとき、神経は体の表面まで逆立ち、内側がからっぽになっています。今夜は、その内側を「充実(中を満たす)」させましょう。

まず、黒ごま塩玄米を。

玄米をよく噛んで食べる。黒ごまのミネラルが、細胞一つひとつをキュッと引き締めてくれます。噛むほどに、自分の肉体の境界線がはっきりしてくる。「わたしはわたし、人は人」という境界線を、魂に引き直してくれます。

黒ごまは、神経を鎮めるカルシウムを豊富に含んでいます。すりごまにして、玄米にたっぷりかけてください。イライラや不安が、少しずつ和らいでいくはずです。

次に、梅干しを一粒。

SNSのキラキラにあてられて、胃のあたりがムカムカするときは、梅干しの強烈な酸味が効きます。その一瞬の「すっぱい!」という純粋な感覚が、他人への嫉妬や自己嫌悪という「思考のゴミ」を一気に吹き飛ばしてくれます。

体が「わ!」と反応する、その瞬間——。そこにあるのは、誰の評価でもない、あなた自身の生きた感覚です。

そして、究極の一杯——。梅しょう番茶

はい、今夜もお湯を沸かしましょう(笑) 熱い番茶に、梅干しをひとつ、おろし生姜、しょうゆを少量。

お湯が注がれる音に耳を澄ませてください。醤油と梅が溶け合う様子を、じっと見つめてください。

この一杯を飲むとき、あなたは「フォロワー」でも「ママ友」でもありません。ただの「生命」に戻ります。他人の承認という「偽物の光」ではなく、お腹の中から広がる「本物の温もり」が、あなたを救います。

はやま

画面の中の光は、どれだけ見てもあなたを温めてくれません。でもお腹の中の火は、確実にあなたを内側から照らしてくれます。

今夜からできること

SNSに流れてくる「素敵な暮らし」は、誰かが丹念に作り上げた「映画のワンシーン」のようなもの。映画と自分の日常を比べて落ち込む必要はありません。

今夜はスマートフォンを充電器に置いたまま、台所へ向かってください。

誰に見せるためでもない、自分のためだけの梅しょう番茶。その茶碗を両手で包み、温かさがじわっと心に染みわたるのを感じてください。

「いいね」の数も、他人の評価も、この温もりには勝てません。

あなたが自分自身の「おいしい」「温かい」という感覚を信じられたとき、他人という地獄は消え、あなただけの穏やかな天国が、その小さな茶碗の中に現れるはずです。


はやま

以前、同じテーマでこんなエッセイ「つい人と比べてしまう——古代の哲学者が、もうその答えを出していた」を書きました。よろしければ。