トトロはほんとうにいる——宮崎駿と、わたしのおじいちゃんの話

不思議な家

宮崎駿さんが、こんなことを言っていました。

「恐ろしくて不思議で不気味なクソジジイになりたい」と。

糸井重里さんとの対談のなかでのことです。自分が老いたら、ちょっと薄暗い部屋に住んで、子どもたちに「あのおじいさんの家に近づいちゃだめよ」と言われるような存在になりたい——そういう趣旨の話でした。

読んだとき、思わず笑ってしまいました。

わたしのおじいちゃんが、まさにそういう人だったから。

はく製が並ぶ、土間のある家

祖父の家は、山肌にべったりと張りつくようにして立っていました。何度か増築をした結果、内部はすこし複雑な構造で、子ども心に「ここは別の世界とつながっている」という確信がありました。

玄関を入ると、まず土間がある。そこにずらりと並んでいたのが、動物のはく製です。たぬき、鹿、ワシ、トンビ、キジ、蛇、亀……。ほかにも名前のわからない生き物が、埃をかぶって壁に沿って立ち並んでいた。子どもの目の高さに、剥製たちの目がある。今思えばかなり異様な光景なのですが、当時のわたしにはそれが当たり前でした。

二階には、かつて母やそのきょうだいが使っていた部屋がありました。そのころはもう誰も住んでいなくて、夏の午後はひんやりと薄暗く、埃の匂いがした。天井の染みを見ていると、まっくろくろすけがいてもおかしくない。いや、実際に何かがいたのだと、今でも信じています。

はやま

昼寝から目が覚めて、おばあちゃんの気配がない。また眠いから目を閉じたまま横になっていたら、すぐ近くの階段を誰かが上り下りする足音が聞こえた。ああ、おばあちゃんだと思って、安心してまた眠りに落ちる。起きてから聞くと、おばあちゃんはずっと台所にいたと言うのです。一度や二度じゃなくて、何度も繰り返しあった。あの家の二階には、絶対に何かが住んでいました(笑)

祖父自身も、なかなか破天荒な人でした。浮気を散々して、若い愛人を家に引き込んで家族と一緒に暮らしていた時期もあったらしい。アルバムを見せてもらったら、次から次へと知らない女性との写真が出てきて面喰らいました(笑)

でも、わたしにはとことんやさしかった。

毎朝喫茶店でミックスジュースかミルクセーキを飲ませてくれて、山歩きや山菜採りに連れて行ってくれた。何時間も虫捕りにつきあってくれたし、川では魚釣りやうなぎの仕掛けのコツも教えてくれた。小学校に上がる前は、実家にいる時間より祖父母の家にいる時間のほうが長いくらいでした。

敷居を跨げば、はく製たちが出迎えてくれることも、50センチを超えるムカデが出ることも、二階に何かが住みついていることも、全部ひっくるめて、あの家が大好きでした。宮崎さんの言う「不気味なじいさんの家」は、わたしにとっては実在する場所だったのです。

祖父と葉山
祖父はハイカラな人で、いつもハンチングをかぶっていました。話が上手で、どこでも冗談を言っては周囲を笑わせていました。そういうとき、なんだか誇らしい気持ちになったことを覚えています(笑)

センス・オブ・ワンダーという空間

レイチェル・カーソンは『センス・オブ・ワンダー』の中でこう書いていました。「知ることは、感じることの半分も重要ではない」。センス・オブ・ワンダー——不思議を感じる能力、世界への根源的な好奇心。それは子どものうちに育まれ、大人になってからのすべての学びの土台になるものだ、と。

宮崎さんは対談の中で、「赤ん坊のときから見てる子が、だんだんつまんない子になっていく」「すごいのになりそうだった子がふつうになっていく」と言っていました。そしてその責任の一端は親にある、と。

正直なところ、その感覚はわかります。娘を見ていて、社会にスポイルされていくなと思う瞬間が、たしかにあった。

でも、わたしは少し違う考えを持っています。

センス・オブ・ワンダーは、消えないと思うのです。大きくなると、奥のほうに引っ込んでいく。幼いころに感じた驚きや不思議は、心の深いところに「それ専用の空間」をつくっている。社会に出て、効率や評価に囲まれて生きていても、その空間だけは残っている。何かのきっかけで、またひらく。

少なくとも、わたしのは消えていません。

病に臥せって絶望しかかったとき、それでもかすかな希望を持ち続けていられたのは、その場所から届く光のおかげだったと思います。

はやま

トトロは、ほんとうにいます。笑われるかもしれませんが、本気でそう思っています。子どものころから不思議な体験を幾度となくしてきたし、木曽駒ヶ岳に娘と登ったときも、説明のつかないことがあった。「な、パパといると変なこと起きるだろう」と言ったら、娘は呆れた顔をしながらも、ちょっと誇らしそうにしていました(笑)

近いうち、古民家に引っ越すぞ

宮崎さんが「ツーバイフォーの家ではトトロは出てこない」という趣旨のことを言っていて、笑いながらも深く頷きました。

わたしが「近いうち田舎に引っ越したい、古民家がいい」と言っているのは、突き詰めるとそういうことなのだと思います。土間があって、縁側があって、夜になると何かが軋む家。娘が巣立ったあとも、「帰ってきたい」と思えるような家。わたしとっての祖父の家のように——。

階段の足音を怖がらせてくれるおじいちゃんの家は、どんな正しい教育より多くのものをわたしに与えてくれました。ちょっと怪しくて、説明のつかないものに満ちていたあの家が、わたしのセンス・オブ・ワンダーの原点です。

突き抜けたバカが、世界を明るくする

宮崎さんは糸井さんとの対談でこんなことも言っていました。「突き抜けたバカが世界を明るくする」のだと。完璧に整った人間より、何かに突き抜けてしまった人間のほうが、世界をずっとおもしろくする——そういう話。

子育てもそうだと思います。

完璧な親でいようとすればするほど、どこかで無理が出る。毎日の食事を完璧にしようとすればするほど、食卓が義務感で窮屈になっていく。不完全でも、ちょっと変でも、説明のつかないものを持っている親の食卓には、何か生き生きとしたものが残る。

祖父の家の夕飯は、決して豪華ではありませんでした。でも土間のはく製たちに見守られながら、縁側の向こうの虫の声を聞きながら食べたあの味は、何十年経っても体のどこかに刻まれています。

はやま

「おかえり!」というサイトを作ったのは、帰る場所のことを書きたかったからです。完璧な場所じゃなくていい。ちょっと暗くて、謎めいた階段があって、はく製が並んでいるくらいがちょうどいい(笑)。でも、いつも誰かが待っていてくれて、いつでも笑顔で自分を迎え入れてくれる——そういう「帰る場所」が、わたしたちには必要だから。

恐ろしくて不思議で不気味なじいさんになりたい、という宮崎さんの夢は、よくよく考えると、子どものセンス・オブ・ワンダーを守りたいということなのかもしれません。

わたしのおじいちゃんは、意識せずにそれをやっていた。

トトロは、今もどこかにいます。信じている人のそばに。