白髪を染めるのをやめた朝。――「枯れる」という、日本一贅沢なデザイン

枯れた盆栽

洗面所の鏡の前で、僕は少しだけ手をとめた。

光の加減で、髪のあちこちに混じる白い筋がいつもより目立って見える。その瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。

「そろそろ、どうにかしたほうがいいだろうか」

一瞬、ドラッグストアの白髪染めコーナーの棚が頭をよぎる。アンチエイジング、若返り、マイナス5歳肌。世間はいつから、人が生きて、時間を重ねていくことを「劣化」と呼ぶようになってしまったのだろう。

時分の花とまことの花

僕たちは、他者の「時間の経過」には、驚くほど寛容で、むしろそこに美しさを見出している。

たとえば、器に刻まれた繊細な貫入(ひび割れ)。たとえば、何十年もかけて職人が仕立てた盆栽の、ゴツゴツと枯れた幹の肌。秋になれば、北アルプスの涸沢カールが赤や黄色、そして深い褐色へと「枯れていく」姿を見て、僕たちは「美しい」とため息を漏らす。誰もあの紅葉を見て「山が劣化した」なんていわない。

それなのに、なぜ自分の体に訪れる秋の気配だけは、必死に隠そうとするのだろう。他人の白髪は「素敵ですね」といえるのに、自分の白髪だけは「なんとかしなきゃ」と思ってしまう。

この矛盾が、なんだか妙に滑稽に思える。

精神分析医のフロイトは、僕たちの無意識には「変化を拒み、不変であり続けたい」という強い自己防衛の欲求がある、というようなことをいった。若さという「春」にしがみつきたくなるのは、人間の本能なのかもしれない。

だが、室町を生き、能を大成させた世阿弥は、その先の世界をすでにデザインしていた。

世阿弥は『風姿花伝』のなかで、若さゆえのみずみずしい魅力を「時分の花」と呼んだ。それは季節がめぐればかならず散る、一時的な幻のような花である。そして、年齢を重ね、肉体が衰えたあとになお、舞台上に立ちのぼる本物の魅力を「まことの花」と呼んだ。

「時分の花は、まことの花にてはなし。ただ、時分の花なり」

白髪は衰退でなく、調和と完成へのプロセス

白髪が増えるということは、春の桜が散り、青葉が茂り、やがて豊かな実りを経て、静かに冬を待つ秋の木々に変わっていくようなものだろう。それは「衰退」ではなく、人間のデザインとして、これ以上ないほど贅沢な「完成へのプロセス」ではないだろうか。

ぬか床をかき混ぜる。

昨日今日、調味液に浸しただけの浅漬けにも、ツヤツヤとしたわかりやすいうまさがある。だが、毎日休まず手を入れ、乳酸菌がじっくりと時間をかけて醸してくれるぬか漬けには、若い野菜には逆立ちしても真似できない「酸味とうま味の深い調和」がある。時間を経ることでしかたどりつない味だ。

僕の髪に混じる白は、僕がこの人生という時間を、それなりにもがいて、それなりに楽しんで発酵させてきたあかしなのだ。

そう思うと、鏡の中の白髪が、なんだか上質な銀の糸のように見えてくる。

「よし、このままでいこう」

白髪染めの代わりに、お気に入りの万年筆に新しいインクを吸わせた。これから始まる「大人の秋」という、一番おいしい季節を、どう綴っていこうかと考えながら。