食卓でスマホを置く理由——子どもと大人のための小さな習慣

デジタルデトックス

娘に「スマホを置きなさい」と言える立場かと問われると、正直言って自信がない。

僕自身が一日中、五十インチの画面の前に座って、原稿を書いている。朝から晩まで、目の前にはいつも光る画面がある。浴びている光の量でいえば、娘よりはるかに多いだろう。えらそうなことなど何ひとつ言えた義理ではないのだ。

それでも食事のあいだだけは「スマホを置け」と言い続けてきた。なぜか。長いあいだうまく説明できずにいたのだが、近頃ようやく言葉になってきた気がする。

画面を見る時間は過去最大

いまを生きる僕たちは、人類の歴史でいちばん画面を見ている。世界の調べでは、大人が一日に画面と向き合う時間は、平均して七時間近いという。仕事も、学びも、遊びも、その多くが画面の中にある。子どもたちは授業をタブレットで受け、友だちとのやりとりもスマホで交わす。絵を描くのも、調べものをするのも、音楽を聴くのも、みんな画面の中だ。

画面が悪者かというと、そう単純な話でもない。スマホは人とつながる道具であり、学ぶための道具であり、何かを表現するための道具でもある。だから、悪いのはスマホだという話をしたいのではない。

ただそうはいっても、体に与える影響を無視するわけにはいかない。

画面が体に与える影響

スマホやパソコンが放つ光には、体を昼だと勘違いさせる働きがある。夜になっても明るい光を浴びつづけると、脳はまだ日中だと思い込み、眠りをうながすホルモンの分泌をひかえてしまう。

寝る直前まで画面を見ていると、体は夜が来たことに気づかない。眠れない、眠りが浅い、朝起きられない——。その悪循環の入り口に画面がある。そして子どもの体は、大人よりずっとこの光に敏感なのだ。

本人の意志でなく、作り手の意図

もうひとつ困ったことがある。

画面の中身は、そもそもやめられないように作られている。SNSの「いいね」、次々と自動再生される動画、ゲームのご褒美——どれも脳の喜ぶツボを的確に突くよう緻密に設計されている。

通知が来ると確かめずにいられないのは、意志のせいではない。設計どおりに反応させられているだけだ。スマホは、使う人を夢中にさせるために生まれてきた道具なのだから。子どもがスマホをやめられないと嘆く前に、そもそもそういうふうに作られていると知っておくべきだろう。

だから僕は、完全にやめるべきだという意見は受け流している。

画面から自然に離れる時間を作る

デジタルデトックスをしっかりやろうとすると、数日スマホを置いて山にこもるとか、電波の届かない土地へ行くというようなことになるだろう。できる人はやればいい。でも多くの人には現実的でない。

仕事にスマホもパソコンもいる。学校の連絡も画面に来る。友だちとの約束も画面で決まる。丸ごと手放せる人など、いまどきほとんどいない。最初から無理がある。

それなら何ができるのか。

画面から自然に離れていられる時間を、暮らしのなかに用意しておくことだろう。ほんの少しでいい。

思い出すことがある。山の中でスマホを見ている人を、僕はあまり見たことがない。電波が届かないからではない。なんとなく見る気にならないのだ。木々の間からこぼれる光のほうが、画面よりずっと美しい。風の音のほうが、通知音よりずっと心地いい。体が勝手に画面から離れていく。

デジタルから離れるとは、歯を食いしばってやめることではなく、気がつけば忘れていたという時間を作ることだと思う。

食卓では、スマホを置く

我が家の約束事はひとつだけだ。

食事のあいだはスマホを置く。家族でご飯を食べるときは食卓に画面を出さない。しつこく言い続けた結果、いまではそれが当たり前になった。

コツは、子どもだけに言わないことだ。自分だけ「置きなさい」と言われたら、当然、反発する。親も一緒に置く。強く言えない事情のある僕も、食卓だけは画面を伏せる。

スマホがなければ話をする。たいした話でなくていい。今日どうだった。これ、うまいね。明日は何が食べたい。そのなんでもないやりとりが、あとになって思いのほか大事な時間だったとわかる。子どもが小さかった頃の食卓の記憶、あれはスマホには保存できない。

世界は画面の外にある

顔を上げると、季節ごとの空の深さ、街路樹の葉っぱの色、隣にいる人の顔つきの些細な変化に気がつく——。たったそれだけのことが一日に一度あるかないか。そのちがいは、思うよりずっと大きい。

完全にやめなくていい。どこかへ出かける必要もない。食卓だけでかまわない。

湯気の立つ皿をはさんで、僕らは画面を伏せる。娘が「今日ね」と話し始める。僕は箸を止め、その顔を見る。画面の光より、この食卓の光のほうがいい。