深夜の台所

深夜の台所

家族が寝静まる。

廊下の電気が消えて、寝室のドアが閉まる音がする。それからしばらくして、僕はおもむろに台所へと向かう。

まるで引き寄せられるように。

ウォッカ、塩辛、明太子

棚からグラスを取り出す。ウォッカを注ぎ、氷を入れてレモンジュースを少々垂らす。それから炭酸水をそっとそそぐ。音を立てないよう——。音がしたところで誰かが起きるわけでもない。深夜の台所ではなんとなく、そうしたくなるのだ。

冷蔵庫を開ける。塩辛、チーズ、明太子……。その夜の気分である。皿に盛るわけでもない。容器ごと、袋ごと、目の前に置く。料理はあまりしない。その時間、誰かのために何かを作ることもない。

これは僕のためだけにある時間——。

月に三十本の映画

学生のころ、レンタルビデオ屋でアルバイトをしていた。VHSの時代の話だ。

大好きな映画がただで観られる、学生にとってこれは大きい。あのころ、ゆうに月三十本以上は観ていた。コッポラ、キューブリック、ルーカス、タランティーノ——。次の一本が待ち遠しくて、バイト終わりに大きな袋を抱えて帰ったことを思い出す。こんなに映画が好きなんだから、映画に関係する仕事が向いているにちがいない——当時そう思っていた。

数年後、その機会はやってきた。

毎月、新作DVDが10本以上入った小さな段ボールが届く。メモを手元に置いて、どの場面をどう書くか考えながら観る。それからレビュー記事を書く。他の原稿や取材の合間に一本ずつ仕上げていく。

丸二年、続いた。

気づいたら、映画をほとんど観なくなっていた。あれほど好きだったのに。「映画を感じる」という行為がどこかへ消えてしまっていた。

はやま

好きなことを仕事にしたら絶対に楽しいはず——そう思っていましたが、結末はこれ(笑) みなさんも気をつけて。

深夜の台所

深夜の台所では、僕は考えない。人間の頭に浮かぶことのほとんどは、価値のない雑念である。だから僕はふだんから、なるべく考えないようにしている。考えるのは書くときだけでいい、と。

誰にでもこんな経験があるだろう。

「昼間の打ち合わせ、もっと気の利いたこといえたよな」「あれ、もしかして失礼だった?」「いや、あれは相手が悪い」——。勝手に脳内会議が始まる。終わったことをひとりで後悔し、腹を立て、落ち込んだりしている。

「今ベランダから強盗が入ってきたら、どう戦おう」「もし洪水が起きて、家から一歩も出られなくなったら、どう生き延びればいいだろう」「もし今日の夕飯をもう一度作り直すなら、何を変えるだろう」——。こんなことを延々とシミュレーションしている。

エアコンの「ピッ」、床の「ミシッ」——。「え? いまの音、何の音?」ときょろきょろする。どうでもいいことなのに、なぜか一瞬「事件」として扱っている。

入り口を閉めておかないと、頭には雑念が次から次へと降ってくる。雑念というのは、気づかないうちに心の奥まで入り込んでいる。そうして大事なものほど静かに壊していく。

映画への興味を失ったのも、たぶん同じだ。二年間、考えながら観続けたことで、頭が映画を感じるものでなく考える対象にしてしまったのだ。そのモードはおそらくもう解除できない。考えることと感じることは、どうやら同時にはできないらしい。

深夜の台所で、だから僕は何も考えない。

感じる時間だからだ。

頭をからっぽにして、ウォッカソーダを口に含む。それから塩辛をひとつまみ、じっくりと味わうのだ。

聖域

昼間の台所は、家族のためにある。

弁当を詰め、味噌汁を作り、おかずを煮焼きする——。台所はいつも誰かの腹を満たすための場所として機能している。それはそれで好きな時間だ。

でも深夜の台所はちがう。

グラスはひとつ。冷蔵庫から直接、何かを出して口に入れる。誰に気兼ねすることもない。この場所は深夜だけ、僕のものになる。

それがどれほど贅沢なことか、最近ようやくわかってきた。

氷の音が、夜の台所に小さく響いた。

グラスの氷が溶けてきた。

もう一杯つくるか。それとも寝るか。

少し考えてやめた。

考えるのは、書くときだけでいい。