見えないものと生きてゆく——かんながらの道

深い山の木漏れ日の中に一本の山道が続いている

山や森を歩いていると、背中に気配を感じることがよくある。

風がやみ、木々が静まり、足音だけがやけに大きく響く。誰もいないはずなのに、どこかで「見られている」気がする。いや、正確にいうなら「見守られている」感覚に近い。怖くはない。むしろ少し背筋が伸びる。

かんながら

あの感覚に古い日本語は名前をつけていた。「かんながら」だ。

意味は「神さまのままに」「あるがままに」——もっとやわらかくいえば、自然の流れに身を置くこと。誰も見ていないところでも、まちがったことをしない。見栄を張らない。打算を働かせない。ただ「これが正しい」と感じたままに生きていく。

神道には教義がない。経典もない。戒律も地獄の教えもない。それなのにあの感覚は確かにある。昔の人は、説明のしようがないその何かを「かんながら」と呼んだのだと思う。

僕がこの感覚に初めて出会ったのは山ではない。畳の上だった。

お天道さまが見ている

子どもの頃、友だちと神経衰弱をしていて、相手が席を外した。カードを覗こうか。どうしても勝ちたいのだ。ガンダムのプラモデルを賭けている。見たところで証拠も残らない。覗かない理由はない。

でも、やめた。

誰も見ていないのに、なぜか「見ているもの」がいる気がしたからだ。お天道さまとかご先祖さまとか、そういう存在の気配を感じたのだ。

もっとも、白状すれば覗いてしまったこともある。もちろん勝った。ところがその夜、妙な罪悪感がじわじわと胸に広がって寝つけなかった。

翌日たまらず白状した。すると相手は、「そんなこと気にしてたの? 俺なんか何回もやったよ」と笑った。こっちは一晩眠れなかったというのに。プラモデルは返さなかった。罪悪感にも限度がある。

ともあれ誰かに命令されたわけでも罰則があったわけでもない。ただ、やってはいけない気がした。物事の道理を学ぶ前から知っていた良心のありようとでも言おうか。「お天道さまが見ている」という言葉は、その感覚につけられた短い名前なのだろう。よくできた言葉だ。神学も戒律もいらない。空を指させば、それで済むのだ。

かんながらの道はすぐ足元に

だがその感覚はいま、少しずつ薄れているとも思う。

効率と数字がものをいう時代、「見えないものに見られている」という話は分が悪い。日本人は敗戦を境に「見えない柱」を失ったと書いた。何万年もかけてこの列島に育ってきた自然観や道徳観が、僕らの代で細くなりかけている。そういう危機感が僕にはある。

いや、と思い直す。

食卓では皆、いただきますと手を合わせる。食べ物を粗末にしない。誰も見ていない路地でゴミを拾う人がいる。落とした財布が中身ごと交番に届く。誰に命じられたわけでもないのに。

名前を知らないだけで、小さな「かんながら」はまだそこらじゅうに生きている。かんながらの道は、何も特別な場所にあるのではない。今日の台所に、今夜の食卓に、人気のない登山道に通じている。

山を下りながらふと振り返る。誰もいない。木立が静かに揺れている。それでも僕は山で用を足すとき、木陰に穴を掘り、済んだらそっと埋め戻す。誰も見ていないのに、そうせずにいられない。

ガンダムほしさにカードを盗み見て眠れなくなった子どもは、いい大人になったいまも僕の中にいる。

お天道さまはいる。少なくとも僕の中には確かにある。