影を抱えたまま歩く——わたしを映す七本の映画

夜の台所で皿を洗っていると、若い頃に寝食を忘れて観ていた映画の断片が浮かんでくることがある。

洗剤の泡の中に、あの頃の自分が立ち上がる。

映画そのものより、その映画を観ていた「あの時の自分」のほうが、今の僕にはよほど鮮明によみがえる。

わたしを映す七本の映画

2001年宇宙の旅:子どもの頃にわからなかったものを、わからないまま抱えて生きるということ

『2001年宇宙の旅』を初めて観た時、僕はまだ子どもだった。正直に言うと、ほとんど意味がわからなかった。

猿が骨を振り回して、突然それが宇宙船になる。無機質な白い部屋、老いた男、黒い石板。「ツァラトゥストラはかく語りき」だけが、やけに大きな音で鳴っていた。

わからないまま、なぜかとても怖かった。世界のどこかに自分の理解を超えたものがある——。その事実だけが、子どもの僕の胸に残った。

大人になって観返しても、やっぱり全部はわからない。解説を読めば、いくらでも意味は手に入る。でも、夜の台所で皿を洗いながら思い出すのは、物語の意味ではなく、わからないものの前に立ち尽くしていた自分だ。

子どもの頃に理解できなかったものを、大人になってもわからないまま抱えていること。それは、世界に対して少しだけ謙虚でいるための、僕なりの小さな支えになっているのかもしれない。

夜の台所で思い返すと、この映画の本当の核心は、わからないものをわからないまま抱えている美しさにあるのだと気づく。

スワロウテイル:居場所のない世界を、居場所のないまま愛するということ

『スワロウテイル』を観たのは、深夜だった。テレビの録画だったか、レンタルビデオだったのか、もう覚えていない。ただ、画面の向こうに広がる「円都(イェン・タウン)」の湿った空気だけは、今でもはっきりと思い出せる。

日本語でもない、英語でもない、よくわからない言葉が飛び交う街。誰もがどこかから流れ着いて、どこかに属しているようで、どこにも属していない。誰かと一緒にいるようで、ずっとひとり。未来があるようで、どこにも見えない。あの雑多な街の湿度は、若い頃の僕の生活の湿度とよく似ていた。

当時の僕も、自分の居場所をうまく言葉にできなかった。会社や肩書きや所属はあっても、「ここが自分の場所だ」と胸を張って言える感じがどこにもなかった。

夜の台所で、一人で酒をかき混ぜていると、ふいにあの雑多な街の色がよみがえる。生活はずいぶん落ち着いたはずなのに、  心のどこかにいまだに「円都」の湿度が残っている。この映画の本当の核心は、「居場所がなくても、生きていける」ということだったのではないかと思う。

その街の住人たちは、居場所がなくても生きていた。肩を寄せ合いながら、笑いながら、ときに泣きながら、それでも前に進んでいた。若い頃の僕は、あの街の住人の一人だった気がする。

今はもうあんな雑多な場所にはいないけれど、心のどこかにあの湿った空気が残っている。

居場所のない世界を、居場所のないまま愛する——そういう映画だった。そして僕もまた、居場所のないまま世界を愛そうとしていた時期があったのだと思う。

地獄の黙示録:川を遡ることは、自分の闇に降りていくことだということ

10代の頃の僕にとって、『地獄の黙示録』は狂気の映画だった。ヘリコプターの爆音、炎、ワルキューレ。マーロン・ブランドの陰鬱な顔。ただただ「ヤバい映画だな」と思っていた。

年を重ねてから思い返すと、あの川を遡る旅は、自分の中の暗い場所へ降りていく行為そのものに見えてくる。

夜の台所で、家族が寝静まったあと、一人で蛇口から流れる水の音を聞いていると、自分の中の静かな闇に触れる瞬間がある。そうして自分の中にも「行きたくない場所」があることを思い出す。

見ないふりをしてきた感情。蓋をしてきた記憶。触れると、何かが壊れそうで怖ろしい部分。怒りでもなく、悲しみでもなく、絶望でもない。ただ、「ああ、これが僕の影なんだな」と、静かに受け入れられるようになった。

『地獄の黙示録』の川は、そういう場所へ向かうための道だったのだ。そこにたどり着いたときに待っているのは、派手な爆発ではなく、静かな闇だ。

物語のラストで、マーロン・ブランドが呟く「The horror……」という言葉の意味が、若い頃よりもずっと深く胸に落ちる。恐ろしさとは、外側にあるものではなく、自分の内側にあるものだ。その闇を抱えたままでも、人は生きていける。

いやむしろ、闇を抱えたまま生きていくことこそ、大人になるということなのかもしれない。

夜の台所の静けさは、あの映画の静けさとどこかでつながっている。騒音のあとに残る沈黙のほうが、人を深く揺らすことがあると、あの映画が教えてくれた。今の僕にとって『地獄の黙示録』は狂気の映画ではなく、静かに自分を見つめるための映画になった。

七人の侍:世界の「正しさ」が揺らいだ瞬間

『七人の侍』を初めて観たとき、僕はまだ「正しさ」というものを、どこかで外側に求めていた。強い人が正しい。賢い人が正しい。勝った人が正しい。そういう単純な世界観のまま大人になりかけていた頃、黒澤の侍たちがそれを静かに裏返してきた。

彼らは勝つために戦っているのではない。名誉のためでもない。金のためでもない。誰かに褒められるためでもない。そこに困っている人がいるから——ただそれだけの理由で、命を張るのだ。

夜の台所でこの映画を思い出すとき、僕はいつも志村喬の背中を思い浮かべる。静かで、揺るぎのない背中。大声で語らない人のほうが実はずっと強いのだと、大人になって知った。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ:欠けたままでも、生きていていいということ

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観ながら、僕はただ音楽にしびれていた。派手なメイク、金髪のウィッグ、  ステージの上で叫ぶように歌う姿。「なんだこの映画は」と笑いながらも興奮していた。

物語の芯にあるのは、自分の体と心に刻まれた欠落と、それを抱えたまま生きていくことの痛みだった。

夜の台所で、一人でコップを洗っていると、自分の中の「欠け」を意識する瞬間がある。うまくできなかったこと。守れなかったもの。取り返しのつかない選択。それでも毎日は続いていく。食事を作り、皿を洗い、仕事をして、翌朝にはまた同じように目を覚ます。

『ヘドウィグ』は、欠けたままでも歌っていいし、欠けたままでも生きていていいのだと、少し乱暴なやり方で教えてくれる映画だった。完璧な自分になってから生きるのではなく、欠けたままの自分で生きていく。そんな当たり前のことを、若い頃はうまく受け入れられなかったのかもしれない。

夜の台所でそのことを思い返すと、少し肩の力が抜ける。欠けたままでもとりあえず皿を洗っていればいいか——そんなふうに思える。

AKIRA:壊れたのは世界じゃなく、自分のほうだった

世界がねじれ、肉体が膨張し、都市が崩れ落ちる。『AKIRA』の破壊の連続は、単なるアニメーションの快楽ではなく、 「世界は簡単に壊れる」という感覚を僕の中に刻みつけた。その破壊の描写は、若い頃の僕には強烈な、しかし単なる刺激だった。

振り返ると、あの崩壊の連続は、 自分の内側の壊れ方にどこか似ている。仕事で追い詰められたとき、家族とうまくいかなかったとき、自分の価値がわからなくなったとき。世界が壊れるのではなく、壊れていたのは自分のほうだった。

夜の台所でブーンという冷蔵庫の振動音を聞いていると、あの映画の破壊の音が小さく重なって聞こえてくる。

壊れたあとに残るものが、その人の核なのだ。『AKIRA』は破壊の映画ではなく、壊れたあとに残る何かを描いた映画だったのだろう。大人になってようやくわかった。

壊れることは、終わりではない。壊れたあとに残るものが、本当の自分なのだろうと。

GO:世界に殴り返したかったあの頃の自分へ

『GO』を観たとき、胸の奥が熱くなった。怒り、孤独、誤解、偏見、愛、衝動——。あの映画に詰まっていたのは、若い頃の僕が抱えていた感情そのものだった。

世界に対して、「お前らに何がわかる」と叫びたかった時期があった。同時に、誰かに「わかってほしい」と願っていた。夜の台所でそのことを思い返すと、あの頃の自分が少しだけ愛おしい。不器用で、まっすぐで、どうしようもなく青かった自分。

あの頃の僕が殴り返したかった世界は、今はもう殴り返す必要のない世界になっている。僕が変わったのか、世界が変わったのか、その両方なのか。

フラッシュダンス:夢を見ることは、生活の中でいちばん難しい

『フラッシュダンス』を観たとき、僕はただ「かっこいい」と思った。飛び散る汗、ポップな音楽、切れのいいダンス、魅力的な主人公。

若い頃、夢を見ることは簡単だった。大人になると、夢を見ること自体が難しくなる。生活がある。責任がある。守るものがある。夢は、若い頃のように燃えるものではなく、静かに灯り続けるものに変わっていく。あの映画の主人公は、夢を叶えるために踊っているのではなく、夢を手放さないために踊っていた。

夜の台所で皿を洗いながら思う。夢を見ることは、若い頃よりずっと難しいけれど、夢を見なくなることのほうが怖い。夢は叶えるためだけにあるのではなく、生きるために必要な灯りだからだ。

未来は、大きな決断や劇的な変化の先にあるのではなく、今日の生活の延長線上にある。皿を洗い、家族の声を聞き、静かな夜を過ごす。その積み重ねの先に未来はある。

『フラッシュダンス』は、未来を遠くの夢ではなく、今の生活の中にある灯りとして見せてくれる映画だ。

ロード・オブ・ザ・リング:世界のどこかに「自分の居場所」があると信じていた頃

『ロード・オブ・ザ・リング』を観たとき、僕はフロドの旅を冒険だと思っていた。でも夜の台所で思い返すと、あれは冒険ではなく、重荷を抱えて歩く人生そのものだったのだと気づく。

指輪は、誰の人生にもある重さだ。手放したくても手放せないもの。逃げても追いかけてくるもの。誰にも代わってもらえないもの。若い頃は、重荷なんてないほうがいいと思っていた。でも今は、重荷があるからこそ人は誰かに支えられ、誰かを支えようとするのだとわかる。

夜の台所で、静かにグラスを傾けながら思う。僕の指輪はなんだろう。誰が僕のサムだったのだろう。フロドは一人では歩けなかった。指輪は重く、世界は果てしなく暗く、絶望はいつもすぐそばにあった。でもサムが隣にいた。

人生とは一人では歩けない旅だ。指輪の重さは人生の重さだ。けれどもその重さを分け合える誰かがいるだけで、旅を続けていくことができる。

映画を思い出すとき、僕らはいつも自分を思い出す

こうして書いてみると、夜の台所で思い出す映画はどれも、その映画を観ていた頃の自分と結びついている。映画を思い出しているようでいて、実は自分のことを思い出しているのだと思う。

夜の台所は、過去と現在が静かに混ざり合う場所だ。映画の記憶はそこでゆっくりと温め直される。

皿を洗いながら、時々あの頃の自分に声をかけてみる。

——お前は、あの映画をどう観ていた?

——今の僕は、あの頃より少しはましになっただろうか。

答えは返ってこない。水の音だけが、変わらずに聞こえている。