先日、言霊の記事を書いた。書き終えて、宿題がひとつ残った。
言葉にしたことは、本当に起きるのか。民俗学の本を何冊も引いておいて、自分では試していない。書き手として不誠実だろう。
というのは建前で、ただ単にやってみたかった。僕にはそういう検証癖がある。玄米を乾煎りしていた頃から何も変わらない。
ルールはこうした。一日ひとつ、声に出して言う。ノートに日づけと結果をメモする。家族には言わない。
最初の一週間は面白いように当たった。
——明日は晴れる。
娘の体育祭が雨で流れた。その予備日の前日である。晴れた。
——母の検査は問題ない。
再検査の結果は、医者の見立てよりだいぶ良かった。
——妻の頭痛が軽くなる。
翌朝、軽くなったと妻が言った。
偶然だろう。しかし「偶然だ」とノートに書く字がだんだん小さくなっていった。
二週目、僕は欲を出した。
——宝くじが当たる。
外れた。
——腰痛が消える。
消えなかった。
——プリンターが直る。
直らないどころか、息を引き取った。
言霊は切れた。そう思ってノートを読み返して、指が止まった。
当たった言葉と外れた言葉のあいだにきれいな線が引けるのだ。自分のための言葉は、何ひとつ叶っていない。誰かのための言葉だけが叶っている。
まさかと思って、三週目は意地の悪い実験をした。
——妻の機嫌が良くなる。
そのほうが原稿が捗るからだが、効かなかった。言葉は、口にした本人の腹の底まで読むらしい。下心はばれる。
娘に頼まれて「満点が取れる」と言ってやった日もある。
効かなかった。悔しがる娘の横で考えていて思い当たった。あのとき僕は、娘のためというより実験の成功例がほしかった。それもばれるのか。
それならあの頭痛は? 母の検査は? あれが叶ったのは、僕の腹に下心のかけらもなかったということか。人はそんなに無心に家族の無事を願えるものだろうか。
願えるのだ。それだけはこの実験でわかった。
ここまで来て、ようやく気づいたことがある。
「いってらっしゃい」「気をつけて」「おやすみ」「お大事に」——。挨拶の中には、相手のことだけを思う一群がある。祈りがそのまま定型文になったような言葉だ。効くから千年残ったと考えると、僕らは毎日、互いに小さな呪文をかけ合って暮らしていることになる。
そういえば、このブログの名前は「おかえり!」だった。
名前をつけたときは、とりたてて何も考えていなかった。なんとなく思いついた。
でも考えてみれば、「おかえり」は、挨拶の中でも強い部類なのではないか。無事に帰ってきた者にしか言えない言葉である。それを僕は長いこと、顔も知らない人たちに向かって言い続けてきた。
そう考えるとまんざらでもない。
——心配事がひとつでも軽くなって、今夜も無事に家へ帰り着きますように。
おかえりなさい。
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