書かずにいられない

書く男

AIが書いた記事が、ウェブを埋め尽くしている。

健康情報、食のコラム、子育てアドバイス——。読んでみると、ぐうの音も出ないほど正確だし、実によくまとまっている。たしかに実用的で、役に立つ。でも、読んだあとにこころに何も残らないような感覚がある。どこかで読んだ気がする。というより、どこでも読める気がする。

そこには、書き手の顔がない。

数年間、書くのをやめていた

書くことが好きだったし、書くことで生きてきた。でもあるとき、体を壊した。それをきっかけに、書くのをやめた。というより、書けなくなった。雑誌や新聞、広告の記事も、ブログも——。

回復してからも書かなかった。

山に登るようになった。家族やひとりでキャンプもした。旅行や海水浴にも行った。友人家族と集まって、わいわい騒いだり、バーベキューに興じたり。そんな日々が、悪くなかったからだ。

書くこと以外の道を探した。書かなくても生きていける、と思っていた。 ……まあ、三年が限界だったけれども(笑)

ある日、ずっと放置していたブログに記事を書いた。

気づいたときには、抜けだせなくなっていた。

思考が手から離れていく

なぜ書くのか、と聞かれたら、こう答える

思考がまとまらないからだと。

僕の頭のなかには、ひっきりなしにいろんなな考えがやってくる。ぐるぐると同じところを堂々巡りして、うんざりしているのに、それでもとまらない。思考の濁流に飲み込まれて、身動きがとれなくなる。とくには窒息しそうになることもある。

書くと、それがちょっぴり楽になる。

書き終えた瞬間、自分の手から離れていく感覚があるのだ。頭のなかで渦を巻いていたものが、文字にすると、僕の外側へすっと出ていってくれるのだ。すると意識の表面が少し静かになる。

以前書いた「深夜の台所」というエッセイでも、「考えるのは書くときだけでいい」と綴りました。僕にとって「書くこと」と「生きることの息苦しさを逃がすこと」は、ずっと地続きのままつながっています。

AIは、書かずにいられないのだろうか

AIは、書かずにいられないだろうか。

それは、ないだろう。

AIは求められたから書く。正確に、迅速に、大量に——。書かないと頭が騒がくて息が詰まる、というような切実さはない。思考が手から離れていく感覚も、たぶん、ない。

AIが書いた記事がどこかよそよそしく感じるのは、その切実さが抜け落ちているせいではないか、と僕は思う。情報として正確でも、誰かの内側からやむにやまれず押し出されてきたものではない。

書くことは本来、内側にあってはいけないものを外側に押しだす行為だ。その摩擦の跡が、文章にじわりとにじむ。

このブログを書き続けているのは、おそらくそういうことだ。誰かに読んでもらいたいから書く、という気持ちはほとんどない。書かずにいられないから書いている。書かないと気が変になるから書く、とまではいわないけれど……まあ、半分くらいはそうかもしれない(笑)

AIが書いた記事がウェブを埋め尽くす時代――。人間が書く理由は、意外と単純なのかもしれない。

今夜も頭のなかの濁流を、インクに変えてノートに落とし込んでいく。そうすることでようやく、僕は静かな眠りにつくことができるのだ。