我あり、ゆえに我思う——腸と思考と、本当の自分

「我思う、ゆえに我あり」は間違いだった 腸と思考と、本当の自分の話

瞑想やヨガを続けていると、不思議なことに気づく。目をつぶって頭の中に次々と湧いてくる思考やイメージを静かに観察していると、明らかにそのときの気分や感情によって内容が変わるのだ。

気分が良いときは、楽観的な思考や楽しい記憶がふわっと浮かぶ。気分の沈んでいるときは、悲観的な考えや思い出したくないような記憶がざわっと表われる。思考の始まりも展開も自分の意志とは関係なく、そのときの心理状態に左右される。

では、感情や気分はどこからやってくるのか。

感情や気分は腸が作る

これまでも何度か書いていることだが、近年の研究は腸内環境との深いつながりを明らかにしつつある。腸内細菌のバランスが乱れると、気分が落ち込みやすくなったり、不安を感じやすくなったりすることが、すでにいくつもの研究で示されている。

それなら自分の考えだと思っていたものの正体は、腸内細菌が作り出した感情の産物ということになる。ひょっとすると僕らの思考は、彼らの小さな意識の集積という可能性さえある。

腸内細菌に意識などあるのか? ——あるのだ。木々や草花が意識を持つと語る植物学者は少なくない。量子論は石ころや金属、果ては電子にも意識らしきものがあるらしいという。

まるでSFだが、きわめて科学的な話だ。いや、その科学も五感で捉えられる現象だけを扱う。この世界の実像を正確に表わしているわけではない。自然現象を記述し、理解し、利用するために人間が作り出した言語のひとつにすぎない。だから人間の知識には限界がある。

ある科学者もこんな言葉を残している。

——想像力は知識より大切だ。知識には限界がある。想像力は、世界を包み込む。

アルベルト・アインシュタインである。

いずれにしろ、僕らが発酵食品を食べたりして腸を整えるのは、はからずも思考を整えていることにつながっている。

デカルトに異議あり

十七世紀フランスの哲学者、デカルトはあらゆるものを疑ったすえにこう言った。

——我思う、ゆえに我あり。

この世に確実なものなど何ひとつないが、考えている自分は確かにいる。だから自分が存在しているという事実だけは疑えない。哲学史上もっとも有名な言葉のひとつだ。

思考がそのときの感情や気分を反映したもので、感情が腸内細菌の影響下にあるなら、むしろこう言えないだろうか。

——我あり、ゆえに我思う。

考えることが人間の本性ほんせいなのではなく、考えるより前に僕らはただ「いまここにある」。それこそが人間の本性であると。

思考を眺める観察者としての「わたし」

瞑想を続けていて、もうひとつ気づいたことがある。

瞑想中は、頭の中に思考の種が次から次へとやってくる。気を許すとその種に吞み込まれて思考が展開していくのだけど、頭をからにして観察することに徹していると、思考の種はすっと消滅する。その観察者としての「わたし」は、思考の枠組みの外にいる。

ヨガや仏教の修行における瞑想は、思考そのものを消滅させることを最終目標としているが、瞑想を少しやるとわかる。常人には一生かかっても不可能だ。

昨今ビジネスマンに人気のマインドフルネスは、瞑想中に表われた思考にラベルを貼って手放せと言う。今日の昼飯は牛丼とラーメンのどっちにしようか……。雑念。さっきのあいつのあの態度は癪に障る……。怒り。高校のときの彼女と結婚すれば良かった……。後悔。こんな感じである。でもこれは思考に完全に呑み込まれている。手放せてはいない。

僕の瞑想は最終的にその中間に落ち着いた。思考の種が出現するのは止められないが、その種を育てない。ただ消え去るのを見ている。

そういえば瞑想を始めた頃、こんな体験を何度かした。

過去の出来事の中に、僕はまるでタイムスリップでもしたかのように立っている。両目で周囲を眺めているのだけれど、もうひとつの意識が全体を俯瞰している。記憶の通りに僕は何かを言う。言ってからあのときこういえば良かったと思う。すると時間が巻き戻り、別の台詞を口にする。その後の展開が変わる。

夢とは手触りがちがっていた。あれは何だったのか。観察者としての「わたし」が強くなっていた時期だけの現象だったのかもしれない。

いまは見ない。

ヨガ哲学が数千年前に言っていたこと

思考を観察する「わたし」という考え方は、数千年前からヨガ哲学の中にある。サンスクリット語でプルシャと呼ばれる純粋な意識のことだ。思考でも感情でもなく、ただ静かにそこにあるもの——。ヨガの修行の本懐はプルシャ、すなわち本当の自分を見つける旅である。

仏教にも似た考え方がある。瞑想の中で無我の境地に達する——。それまで自分だと思っていたものは自分ではない。その奥にある他の何かに気づくことだ。

現代の脳科学や量子論、腸内細菌などの研究が少しずつ明らかにしつつあることを、古代の修行者たちは直感的に見抜いていたのだ。人間の洞察力の深さには舌を巻く。

本当の自分とは何か

本当の自分、観察者としてのわたし——。言い方はなんでもいいが、それが思考でも感情でもないとしたら、いったいなんなのだろうか。

僕はこう思う。

目の前で誰かが泣いていたら、胸がきゅっと痛くなる。子どもが笑っていたら、こちらまでうれしくなってしまう。いやな相手が失敗して青ざめているのを見て、しめしめとほくそ笑むことがあっても、心の奥で何かが戒めている。

そんな理屈抜きの感覚——。それは僕らの表層の意識でもなければ、腸内細菌が生み出す感情とも異なる、ずっと深い場所にあるものだ。

共感する力とでも言えばいいのか。

自分と他者を同じものとして感じる感覚。自分と世界との境界線が溶けていくような感覚。僕らの中にはもともとそういうものがある。

海に落ちる一粒の水滴と同じように、僕らはもともとこの世界の一部で、境界線などないからだ。