この頃、大手不動産サイトでよく田舎暮らし物件を物色している。
いずれは現在の住まいを引き払い、畑を耕し、鶏舎を自作して鶏を飼い、竈で飯を炊く。朝の土の匂いや、火を起こしたときの煙の湿り気を胸いっぱいに吸い込みながら暮らしたい。
頭でっかちに生きてきた反動なのか、近頃そんな生活に憧れている。頭ではなく体を使う日々に、いい歳して胸を高鳴らせている。
ところで僕は理性的な男である。少なくとも自分では勝手にそう思っている。神さまや魂の存在は否定しないが、いわゆる迷信などは一笑に付す。
うちの母はよくこんな迷信で、子どもの僕を脅していた。
——ご飯粒を残すと目がつぶれる。
——食べてすぐ寝ると牛になる。
——夜に口笛を吹くと蛇が来る。
——火遊びするとおねしょする。
——つむじを押すと下痢をする。
……いや、どういう理屈だ。僕の目はつぶれていないし、まだかろうじて人間である。蛇が来たこともなければ、おねしょも下痢もしたことがない。極めつけはこれだ。
——耳たぶが大きいとお金持ちになる。
そう聞いてから、僕は事あるごとに薄い耳たぶを引っ張って伸ばしてきたが、お金が貯まった試しがない。いまだ自転車操業の身だ。だから声を大にして言う。迷信なんかぜんぶデタラメだ。
ところがである。田舎暮らし物件の良い出物をいざ目の前にすると、いつの間にか腕時計の方位磁石を凝視している。この家の鬼門(北東)はどっちだと。
先日も不動産屋の若い担当者に大真面目に尋ねていた。
「この物件、鬼門はどのあたりになりますか」
相手はきょとんとして、それから曖昧に笑った。
「き、鬼門……えっと、風水みたいなやつですか? あ、日当たりの話ですかね?」
日当たりの話などしていない。鬼門を知らんのか。
家に帰れば帰ったで、僕は間取り図とにらめっこする。鬼門に玄関を置いてはならない。台所も便所も風呂もいけない……。ならばと水回りを片っぱしから鬼門から遠ざけていくと、今度は裏鬼門(南西)なるものに突き当たる。北東も南西も駄目だとしたら、いったい我が家の便所は、どこへ行けばいいのだ。庭か。井戸か。いっそ川か。
昨夜、自室の扉を閉めるのも忘れ、僕はネット検索に没頭していた。鬼門を不浄にすると病気やお金の問題を招く。裏鬼門は家庭運や人間関係に影響がある——。総じて愉快な話ではない。調べているうちにどんどんと気が滅入って来た。なんだか肝が冷えてきた。
画面に集中していたから、妻が入ってきたことにも気がつかなかった。いきなり背中で声がしたときは、体がビクッと震えた。
「そういうの嫌いって言ってなかった? 僕は理性派だからって」
……返す言葉もなかった。
妻が去ったあとに読んだ記事によると、陰陽道では、北東の隅から鬼が出たり入ったりすると考えたらしい。だから鬼の出入りする門、鬼門なのだ。
ちなみに北東という方角、十二支をまるく並べて当てはめると、丑と寅のちょうどあいだに当たる。鬼の住処は、丑寅の方角で、だから鬼は牛のような角を生やし、虎の皮のパンツをはいているのだ。
——あいつらは鬼門という生まれ故郷の名を、角とパンツで律儀に背負って生きているわけか。
などと考えて、少し愉快な気分になったが、やはり北東が気になって仕方がない。理屈でいえば、方角に善も悪もない。人の幸不幸を決めるわけがない。頭ではわかっているが、どうしても鬼門は避けたいのだ。
結局、鬼門が気になりすぎて、一睡もできなかった。
完全に寝不足で迎えた翌朝——。
朝食を食べながら、僕はまだスマホで「鬼門 盛り塩 頻度」を調べていた。
「もう。ご飯中にスマホ見ないで。ご飯粒残ってるよ」
妻に注意されて、はっとした。見ると、茶碗に数粒の米粒が残っているではないか。
気が滅入っているせいか、母のあの言葉が脳裏をよぎった。
——ご飯粒を残すと目がつぶれる。
慌てて、箸で一粒ずつつまんで残さず平らげた。
「ごちそうさま」僕は立ち上がって、寝不足の体を大きく伸ばした。あくびが出た。眠い。そのままリビングのソファにごろりと横になる。
「ちょっと、食べてすぐ寝っ転がると牛になるよ」
妻が呆れたように言った。
ふん、なるわけがない。ん? 待て。牛だと。牛といえば昨夜調べたばかりの丑寅の方角、すなわちほぼ鬼門。
その瞬間、恐ろしい考えが頭に浮かんだ。牛は丑だ。僕がいま横になると、鬼の半分が完成してしまう。
僕はソファから跳ね起きた。
ふう、危ないところだった。もう少しで鬼が片足を踏み出してくるところだった。妻が変な顔をしてこっちを見ているので、僕は動揺をごまかそうとして口をすぼめ、すうすうと口笛を吹いた。
「朝から口笛なんか吹いたら蛇が来るよ。あれ? 夜だっけ? 蜘蛛だっけ……」妻の言葉は、途中から耳に入ってこなくなった。
——口笛を吹くと蛇が来る。
蛇といえば、十二支の巳。方角でいえば南東だ。鬼門の北東からはずれているが、もう方角なんてどうでもいい。蛇が来るのは夜のはずだが、それはもっとどうでもいい。というか、もう妻が蛇に見えてきた。
僕の目はつぶれ、牛になり、あまつさえ蛇に囲まれ、北東からは虎のパンツをはいた鬼が殺気むき出しで、猛烈な勢いで駆けてくる。
「……田舎暮らし、やめようかな。鬼門が気になってしょうがない。田舎って縁起とか因縁とか本当にありそうだし」
朝から精魂尽き果てた気分になってしまい、僕はそうつぶやいていた。すると妻がとどめを刺すようにこう言った。
「いいんじゃない? そんな蚤の心臓だとどこに住んでも毎日鬼門にいるようなものだし」
……ぐうの音も出なかった。
僕の耳たぶは今日も悲しいくらい薄く、風に揺れている。
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

