神さまは、燃えるゴミに出せない——お守りが捨てられない

お守り

机の引き出しを開けたら、神さまがぞろぞろ出てきた。

交通安全のお守りがみっつ。娘の学業成就がふたつ。無病息災に家内安全、それにいつぞや伊勢で娘にせがまれて買った健康祈願のもの。さらにお札や破魔矢まである。

どれもとうに一年の役目を終えている。お守りは一年でその力を返すものと聞く。つまりこの引き出しは、期限切れの神さまでひしめく小さな姥捨て山なのだ。

問題はどうしても捨てられないということだ。

合理的に考えれば、お守りというのは布と紙と木や金属の小片にすぎない。燃えるゴミに出したところで、バチも祟りもあるはずがない。頭ではわかっている。それでも、いざゴミ袋の口を広げると指がぴたりと止まってしまう。

——神さまを生ゴミと一緒に出すのか、お前は。どこからともなく、そんな声が聞こえてくるのだ。

そこで僕は策をめぐらせる。塩で清めてから出せば良いのではないか。いや、白い紙に丁寧に包めば失礼にはあたるまい。そうやってひとしきり思案したあげく、結局は清めも包みもせず、そっと引き出しに戻す。神さまはまた一年、姥捨て山で暮らすことになる。

こうして溜まりに溜まった神さまを、僕は数年に一度、思い立ったように神社へ返しに行く。

境内の隅に、古いお札やお守りを納める専用の納札所がある。そこへまとめて返してくるのだ。そのとき他の参拝客を横目で見ていると、大抵ひとつかふたつをそっと納めている。

ひるがえって僕はというと、お守りや破魔矢のどっさり入った紙袋を抱えている。数年分の神さまの一斉退職である。納札所の前で袋を傾け、じゃらじゃらと神さまを注ぎ込んでいたら、たまたま通りかかった神主さんとばっちり目が合った。とりあえず会釈をしておいたが、視線が妙に冷ややかだと感じたのはきっと気のせいだろう。

お焚き上げの煙を見上げながら、僕はいつも同じことを考える。

——なぜ、僕はこんなに布と紙を捨てられないのだろう。

祟りが怖いわけではない。頭のほうは笑い飛ばしている。それでも手が止まるのは、これがただの布きれと紙きれではなく、祈りの入れ物だからだと思う。

娘の健康を願う気持ちがこの小さな袋に畳み込まれている。それを生ゴミと一緒にするのはバチが当たるからではなく、自分の祈りを自分の手でなかったことにするようでどうにも忍びない。

この感覚は、方位磁石を握りしめて鬼門を避けるのとたぶん同じだ。書斎に居ついた貧乏神を追い出せずにいるのとも地続きだ。

この国の人間はずっとこうやって生きてきた。物にも場所にも役目を終えたものにもつい心を見てしまう。恐れているのではない。薄情になりきれないのだ。

そう思うならさっさと返しに来いと神主さんに叱られそうだが、人一倍忘れっぽくて面倒くさがりなのだからどうにもならない。

こうして今年もまた、僕の引き出しの中では無事に務めを果たした神さまたちが肩を寄せ合い、居心地が悪そうに任を解かれる日を待っている。