手のひらの物差しで、測りまちがえる人たち

呪術師と剣客

父は昔から、他人のことを判断したがる人だった。他人の言動をすぐ勝手に解釈したがるのである。

あれはほんまはこういう人間や、腹ではこう思とる、見とってみ、こうするつもりやぞ——。聞いてもいないのにこんなことを言う。当たっていることもあっただろう。けれど大抵は判定がつかないまま流れていってしまう。

そんな父を見ていて、あるとき気がついたことがある。人は不安をぬぐうため、他人を理解しようとするのだと。人間は未知のものに恐怖を感じる生きものだ。近くの人々が何を考えているかわからないと不安を覚える。落ち着かない。だからわかったつもりになりたいのだ。

うわあ! 助けてくれえ! お母ちゃん! 父はこんなふうに寝言で叫びちらすのが日常茶飯事の人だった。おそらく日常的にさまざまな不安を抱えて生きていたのだと思う。

僕も父に突然こう言われたことがある。

「虚勢張りよるんやな。悪いこっちゃない」

何を言ってるのかわからず困惑したが、僕が自信に満ちあふれた様子でいるのを見て、父はそれを虚勢と解釈したのだとあとになってわかった。大学に入って親密な友人たちがたくさんできた。恋人もできた。若さゆえの万能感もあっただろう。とにかく僕は少しずつ、自分に自信を持てるようになっていった。

父の人生にはそういう時期がなかったのかもしれない。だから僕のそれを偽物と解釈したのだろう。

先日、友人から聞いた話も、こうした人間の性質をよく物語っている。

友人宅の斜向かいの家に、老人が一人で住んでいるという。

引っ越してきて三年になるが、挨拶を交わしたことはなかった。回覧板は郵便受けに差すだけ。雨戸は年中閉まっていて、庭木は伸び放題だった。

その家に宅配便がたまに来る。細長い箱ばかりが届くのだ。長さ一メートルほどの、明らかに棒状の何かが入った箱だった。

最初に気づいたのは、彼の奥さんだったそうだ。

「またあの箱よ。今月三つ目」

夕飯の食卓はしばらくその話題で持ちきりになったという。奥さんの見立ては釣り竿だった。友人は日本刀を推した。雨戸を閉め切った家で、老人が黙々と刀を集めている。ありそうな話じゃないか。

「刀って宅配便で届くの?」

「登録証があれば届く」

調べたの、と奥さんが聞いた。調べていたらしい。

そのうち夜になると、その家から妙な音が聞こえてくることに気がついた。ヒュオオ、という、風とも笛ともつかない音である。奥さんは隙間風だと言ったが、彼の推理はちがった。真剣の素振りである。刀が空を切る音だ。

こうして彼の中で、斜向かいの老人は無口な刀剣コレクターから現役の剣客に昇格した。他人の人生が、よその食卓で勝手に書き換えられていったのである。

しばらくして、町内の清掃日にその老人と初めて挨拶を交わしたそうだ。思いきって話しかけると、老人は意外にもよく通る声で返し、それから少し声をひそめてこう言ったという。

「立ち入ったことを伺うが、お宅、夜中にベランダで何をなさってるの」

ぬか床だった。彼は毎晩寝る前にぬか床をかき混ぜる。冷蔵庫に入れない主義で、夏場は風の通るベランダに出している。手を入れながら、今日は調子がいいなとか、きゅうりを入れすぎたなとか、つい声に出る。

「壺に向かって、ぶつぶつと……。いや、ご祈祷の類いかと」

老人は老人で友人のことを、深夜に壺を拝む呪いの人だと考えていたらしい。ちなみに例の細長い箱は尺八だったそうだ。ヒュオオは稽古の音で、剣客の正体は都山流の演奏家だった。

帰り道、友人と奥さんはしばらく笑い合い、それから少し怖くなったそうだ。彼は三年分の断片から一人の剣客をこしらえ、老人は三年分の断片から一人の呪術師をこしらえた。お互い本気でそう確信していた。

剣客と呪術師というのは極端の話だけれど、これと似たようなことが、実は僕らの周りではひんぱんに起こっているのではないだろうか。

友人たちや父だけでなく、人はいつだって他者を判断しようとする。

手のひらほどの長さの物差ししか持ち合わせていないのに、空の大きさや海の深さを測ろうとする。それどころか物差しで地球の重さや光の速さを測ろうとする。そうやって今夜もまた、誰かの手のひらの上で誰かが盛大に測りまちがえられている。

父を見ていて、僕自身もどれほど他人に勝手な解釈を与えていたか知ることができた。以来、なるべく判断も解釈も抜きにして人と接するようにしている。すると他人の中に、僕には想像もできなかった一面を発見することが増えた。

最初からこうと決めつけるより、そのほうがきっと人生は面白い。