台所という場所は、失敗の宝庫だ。
料理の出来は、腕前や食材の質よりも、その日の気分や体調、なにより誰のために作るのかで決まる。つまり僕の料理は、だいたい「その日の僕」に左右されている。
失敗したとき、なぜか偉人たちの言葉がよぎる。彼らが味噌汁を濃くしすぎたり、卵の殻を入れたりしたとは思えないけれど、妙にしっくりくる。
台所は、そういう場所なのだ。
この記事に書いていること
卵とマーク・トウェイン
卵という連中は、台所に立つ人間の様子をよく見ている。
こちらが急いでいる日は、割ると殻を入れてくる。ぼんやりしている日は黄身を破ってくる。半熟にしたい日に限って固まり、固めたい日に限って半熟になる。ゆで卵の殻を剥けば、白身がぼこぼこになる。一瞬イラっとするけれど、そのあと「今日の君がそうなんだから仕方ないだろう?」と言われているような気がして、小さく息を吐く。
そんな日には、マーク・トウェインの言葉がふっと浮かぶ。
——習慣というものは、窓から放り出すことはできない。階段を一段ずつ下ろすように、少しずつ手放すしかない。
僕の「殻を入れる癖」も、まだ階段の途中にいるらしい。トウェインが生きていたら、きっとこう言っただろう。「君はまだ三段目だね」と。僕自身もそう思う。いや、もしかしたらまだ階段のいちばん上で、卵パックを抱えたまま立ち尽くしているだけかもしれないけれど。
鍋とリンカーン
カレーやシチュー、圧力鍋の炊飯……鍋を焦がす機会はいくらでもある。
鍋を焦がすとき、心はかならずどこかへ飛んでいる。台所の小窓から外をぼんやり眺めていたら、いつの間にか底が黒くなっている。シチューをかき混ぜながら考えごとをしていたら、鍋のほうが先に現実を突きつけてくる。
焦げついた鍋底を見つめていると、リンカーンの言葉が静かに浮かぶ。
——私は歩みが遅い。しかし、決して後退はしない。
焦げを落とすタワシの動きは、まさしくこれだ。ゴシゴシと力強く、進みは遅いけれど、確実に前へと進む。一度削り落とした焦げが、ふたたび鍋底に戻ることはない。これぞ前進である……などと、シンクの前でひとり、焦げた鍋相手に大統領なみの哲学を開陳しているのだから、台所という場所はつくづく恐ろしい。
とはいえ、鍋も人生も焦げついたところにこそ学びがある。学んだはずなのに翌月また焦がすのは、僕の悪い癖だ。リンカーンに相談したいが、彼もきっと「焦げは人生だよ」と笑うだけだろう。
なお、食材を焦がした日は失敗にカウントしないことにしている。心がもたない。
味噌汁とトルストイ
味噌汁は毎日ちがう顔を見せる。濃い日、しょっぱい日、やさしい日。具材の量が日によってちがうのは、もはや我が家の呼吸だろう。
幸福な家庭はどれも似ている、とトルストイは書いた。
けれど、味噌汁の味は毎回まったく似ていない。昨日はやさしい味だったのに、今日は旅人の喉をからからにするほどしょっぱい。同じ味を再現できた日は、ちょっとした奇跡だ。娘が「今日のお味噌汁、濃くない?」と眉をひそめるたび、家庭の幸福よりも、まずは手元の味噌汁の安定を願ってしまう。
味噌汁は、娘より気まぐれだ。
でもその気まぐれに救われる日もある。
調味料とオスカー・ワイルド
醤油のふたが開いていて、一気にどばっとあふれ出る。砂糖と塩をまちがえる。油と酢を取りちがえる。台所の失敗は、うっかりがいちばん多い。
そんな日は、オスカー・ワイルドの言葉が頭をよぎる。
——経験とは、誰もが自分の過ちに与える名前だ。
醤油をかけすぎた日も、塩と砂糖をまちがえた日も、すべて経験として棚にしまっておく。僕の棚はすでに満杯だ。経験は増えても料理の手数はあまり増えない。人生とは、そういうものかもしれない。
粉とアインシュタイン
粉はこちらの気持ちをまったく汲んでくれない。小麦粉や片栗粉は、気を抜くとすぐにだまになるし、気を抜かなくてもだまになる。粉が舞い上がると、台所に雪が降ったみたいになる。
そんなとき、アインシュタインの言葉が頭に浮かぶ。
——常識とは、十八歳までに身につけた偏見の集まりである。
だまができるのは、僕の偏見のせいなのか、粉のほうが偏っているのか。どちらにせよ、だまは今日もできる。そして僕はだまをそのまま食べている。偏見は案外おいしい。
台所の失敗は、その日の自分をそっと照らしてくれる。
失敗の多い台所ほど、暮らしに温度が生まれる。
今日もまた何かをやらかしながら、僕らは少しずつ台所になじんでいく。
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

