作り置きのおかずをまとめて何種類か作った。冷める前に詰めて冷蔵庫にしまおうと棚の扉を開けたら、タッパーが雪崩を起こした。大、中、小、極小。丸、四角、なぜか楕円。まあ、これだけあればなんの不自由もない——そう思った瞬間、胸の奥で小さな警報が鳴る。
案の定である。
ちょうどいいものを選び、ふたを探す。ない。山をかき分ける。カチャカチャ、ガサガサ。ようやく見つけたと思ったら、ひと回り小さい別の容器のふただ。お前の相方はどこだ。なぜ無関係な顔でそこにいる。お前は誰だ。なぜ僕の人生に紛れ込んでいる。
ふたの失踪事件
ようやく見つけたふたは、電子レンジで角が溶けて反り返っていた。かぶせると片側が浮く。仕方なく上から手で押さえるが、手を離せば、ぱかっと持ち上がる。完全に反抗期である。もはや意思を持っているとしか思えない。
次に手に取った容器は、いつかのカレーで黄ばんでいた。洗っても、漂白しても、あの色だけは取れない。試しに白いご飯を詰めてみたら、ほのかにスパイスの香りがした。何を入れても勝手にカレー風味にしてくる。もはや調味料である。
やっかいなのは、惜しいふたが何枚もあることだ。この容器に合いそうだと思ったふたは、はめてみると一ミリ大きい。隣のを試すと、今度は一ミリ小さい。たった一ミリのために、僕はさっきから三枚もふたを取り替えている。この家には、僕の知らない保存容器の法則が働いている。
妻に聞くと「知らない」と言う。娘に聞くと「パパが片づけ下手なだけでしょ」と言う。図星なので黙る。
いつだったか、業を煮やしてすべての容器とふたを床に並べたことがある。大半はそろった。問題は、最後に残った容器が三つとふたが二枚。こいつらだけ、どうしても相手が見つからない。家のどこかに相方が隠れているとしか思えない。
それとも、もう捨ててしまったのか。こちらが油断した隙にどこかへ旅に出る。この現象に名前をつけた学者はいないのか。タッパーは増えるのに、まともに使えるものは減っていく。人生もだいたいそんなものだ。
破れ鍋と綴じ蓋
なにやら難解なパズルに挑戦しているような気分になってきた。破れ鍋に綴じ蓋、ということわざが頭に浮かぶ。確かあれは、どんな人にもぴたりと釣り合う相手がいるという意味だったはずだ。
だが現実はどうだろう。相手になんの不満も抱かず喧嘩もせずに暮らしている夫婦がいったいどのくらいあるだろう。相手をまちがえた鍋とふたがこの世には少なからずあるのではないか。うちだってそうでないという保証はない。目の前に転がるタッパーを、そんなふうにしてこの世の不条理と重ねてしまうのはもう病気かもしれない。
さきほどから床に正座し、行方不明者リストを前にした刑事のような気分でいる。無添加だ、一汁三菜だと偉そうに語っている男の台所の、これが真実の姿である。
結局、いちばん頼りになるのは、空いたヨーグルトの容器だったりする。ふたもないくせに、ラップ一枚かぶせて、今日も涼しい顔で冷蔵庫に収まっている。正規軍が総崩れのなか、傭兵がひとり淡々と仕事をこなしている。あいつはふたがなくてもいちばん信用できる。
それにしても台所には、説明のつかないことが多すぎる。歪んだものやカレー風味のもの、相方が失踪したものを発見しても捨てずにまたもとの場所に戻す自分自身も含めて。
明日こそ新しいセットを買おう。そう心に決めて扉を閉めた。
こうしてまた、容器が一組、増えるのだ。
ふたが行方不明になる家に、平穏な人生などあるはずがない。
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