男になって初めて、泣いた。——どん底で出会ったヨガが、僕に返してくれたもの

ヨガする男

大人になって人前で泣いたのは、あのときが初めてだ。

情けなくて、情けなくて。声が出た。

それまでの僕は、他人に同情されることが嫌いだったし、周囲にそう宣言もしていた。弱いところを見せることは「負け」だと思っていた。でもあのときだけは違った。ただ、慰めてほしかった。

動けなくなった

体が動かなくなっていた時期のこと——。

外出もままならず、食べるとすぐに立てなくなるほどの胸の鈍痛に襲われる。当然、仕事もできない。現代医療には匙を投げられていた。

妻は、どうしていいかわからなかったのだと思う。出会ったころから「あなたの強さが好き」とよく言っていた人だから。目の前の男が別人に見えたかもしれない。責めるつもりはない。僕自身、自分が別人になったような気がしていたから。

親は経済的な援助をしてくれた。でも寄り添ってくれるタイプではなかった。子どものころからずっとそうだった。

はやま

いまはなにもかも許しています。といっても、別に恨んでいたわけでもありませんが。ただ、自分のことで精一杯な人間には、他者に思いやりをかける余裕なんかない。この年になると、それが身に染みてわかります。

孤独だった。

でも、孤独だったからこそ、自分で自分をなんとかするしかなかった。その一点だけが、僕をかろうじて前に向かせていた。

2度と涙なんかこぼすまい。自分の体は、自分で立て直す。

自分にそう約束した。

ヨガと出会った

ヨガを始めたのは、そんなときだった。

最初は体を動かすためだった。哲学とか、そういうことは何も考えていなかった。ただ、ベッドの上でじっとしているよりはましだという、それだけの理由だった。

ヨガマットの上でひとり、ポーズをとる。うまくできなくていい。ゆっくり呼吸する。それだけのことが、奇妙なほど心を落ち着かせてくれた。

少しずつ体が動くようになってきた。外に出られるようになった。まず歩く。そのうち走るようになる。ゆっくりと、でも確実によくなっていった。

ヨガが哲学だと知った

体を動かしながら、独学でヨガを学んでいくうちに気がついた。これはただの運動じゃない、と。

ヨガはもともと、5000年の歴史を持つ哲学体系だ。「アーサナ」と呼ばれるあのポーズは、実践の段階のうちの「3番目」にすぎない。瞑想も呼吸法も、すべてはひとつの大きな哲学の木の枝だった。

その哲学が何を語っているといえば、人間は宇宙の一部である、ということだ。自我は幻であり、本当の「自分」はもっと大きなものとつながっていると。

はやま

言葉にすると急に怪しくなりますね(笑)。でも瞑想を続けていると、頭でなく体で、それが少しだけわかる瞬間がある。言葉で説明できない感覚。でもたしかにあります。

その感覚が、僕の地面になった。どれだけ揺れても、ここに戻ってこられるという場所。

答えは、ずっとそこにあった

以前からよく、西洋哲学の本は読んでいた。でもなにかが足りなかった。求めている答えがそこにはなかった。だからヨガに行き着いたときは苦笑した。

ひどく遠回りをしたな、と。僕が探していたものは、ヨガマットの上にずっとあったのだ。

あの泣いた夜のことを、いまでも時々思い出す。情けなくて、孤独で、それでも光を探していたあのとき。あの夜がなければ、僕はヨガと出会わなかったかもしれない。

だから、絶望には感謝している。それが入口だったから。

はやま

もしいまあなたが、似たような場所にいるなら、出口は意外と近くにあると思います。どこにあるかは、人それぞれだけれど。

ヨガを「整える」ための実践として始めてみたい方は、こちらの記も読んでみてください。難しいことはありません。まずマットの上に立ってみるだけ。それで十分です。