家族が寝静まる。
廊下の電気が消えて、寝室のドアが閉まる音がする。それからしばらくして、僕は台所へ向かう。
今夜はグラスをひとつと、シングルモルトの瓶を持って書斎へ行く。ストレートで、チェイサーに水を一杯。ずいぶん上等な夜に聞こえるが、種を明かせば貰い物である。ふだんはこんな高い酒を飲まない。ただ、昔ちょっとした縁でウイスキーの仕事にかかわったことがあって、味のちがいが少しだけわかる。わかるようになった舌に、貰い物が回ってきた。開けるしかないではないか。
書斎の椅子に腰をおろして、ひと口。麦とスモークの、遠い国のにおいがする。
正面には、本棚がある。
壁二面、床から天井まで。いつだったか満杯になり、いまでは本の前に本がならんでいる。よくもまあ、と我ながら思う。
多すぎる——何年も前からそう思っていた。書棚はとっくに限界を超え、床にも積み上がり、押し入れの奥にも段ボール箱が眠っている。それで先日、ブックスキャナーを買った。ぜんぶデータ化して、本棚をすっきりさせようという算段である。
使ってみた。確かにサクサクとスキャンできる。PDF化するのに、新書なら一冊、十分とかからないだろう。
でも、読めない。いや正確には、読みにくいのだ。
紙をパラパラとめくって流し読みする感覚が、画面では再現できない。ページを前後に行き来しながら読む、あの独特の立体感が失われる。なにより付箋が貼れない、線が引けない、余白に書き込めない。これが地味に痛い。
そういうわけでいま、ブックスキャナーは部屋の片隅で静かにしている。本多すぎ問題は、何も解決していない。ただ、おかげでこうして本棚をじっくり眺める機会ができた。
この記事に書いていること
本棚は地層
グラスを片手に、棚の前に突っ立って眺める。
川端、太宰、芥川、三島、漱石——日本文学がずらりと並ぶ一角。司馬遼太郎や池波正太郎の歴史小説が背を向ける一画。江戸川乱歩から東野圭吾まで、ミステリーは何でも読んできた。純文学、ノンフィクション、哲学書。生物学、心理学、宗教学、歴史と地理。食や健康の本は、体を壊したときに読み漁った。向田邦子、山田太一、ニール・サイモンの脚本。シェイクスピア全集。国語辞典だけで三、四冊。ネットの時代になって、長らく引いていないけれど。
それから、村上龍と村上春樹がまとまってならぶ一角。
これは本棚ではなく、地層だと思った。
いちばん下にあるのが、「小説家になりたかった頃」の地層である。龍と春樹は十代のときに好きになった。大人になってから大人買いしてそろえた。いまはもう手に取ることもない。だが、捨てられない。
なぜ捨てられないのか。ウイスキーをなめながらしばらく考えてみたが、答えはわりと単純だった。彼らの本はアルバムのようなもので、それを捨てることは、十代の自分を捨てることに近い。本を置いておくのは、「あの頃の自分」を保存しておくのと同じなのだ。
古本屋には売れない
だいたい、僕の書棚の本は古本屋に持ち込めない。
ページのいたるところに付箋が貼ってある。赤ペンか蛍光ペンで線が引いてある。余白には思ったことや疑問、ときには反論のような言葉が走り書きされている。そして表紙の裏に、読み終えたときの感想が書いてある。つまらなかった本を誤って再読しないための、自分への忠告として。
書き込みや線の密度を見ると、そのときどれだけ真剣にその本と格闘したかがわかる。格闘の跡が残っている本ほど、手放せない。その書き込みが、反論ばかりであったとしても。
本を読むとき、僕は対話をしている。著者と、それから過去の自分と。
何年も前に線を引いた一文に、あらためて目がとまる。なるほど、二十年前の自分はここを重要だと思ったのか。当時は重要だと感じた部分が、いまはどうでもよくなっている。いまの僕は、二十年前とはまったく別の地平に立って世界を眺めている。当たり前のことだが、書き込みのある本に教えてもらうまで、そのことを実感できていなかった。
貧乏でも本だけは買った
若い頃は、お金がなかった。
それでも本だけは躊躇なく買うと決めていた。一万円近い本でも、読みたいと思ったら買った。神田の古書街にもよく通った。古びた店の棚を眺めながら、知らない著者の本を手に取り、パラパラと流し読みして買うかどうか決める。あの感触は、画面で本を検索する感覚とはまったく別のものだ。
その頃出会った本が、いまも書棚にある。
立花隆の『知のソフトウェア』。人間の思考は「ソフトウェア」であり、読書はそのOSを書き換える行為だ、と彼は言う。情報を集めることより「問い」を立てることが重要で、思考は外に出すことで強くなる。つまり、書くことで整理されると。
近くには、小林秀雄の『読書について』がある。小林は読書を情報収集とは見ていない。著者の精神に触れる行為と考えていた。本を「理解」しようとするな、まず「感じろ」と。よい文章には、書き手の切実さがにじむ。
ショーペンハウアーの『読書について』。彼の主張は辛辣だ。読書とは他人に考えてもらう行為にすぎない。読みすぎは自分で考える力を奪う。隙間の時間をすべて読書で埋めると、思索の時間がなくなる。読書は摂取、思索は消化であり、消化なき摂取は身にならない。「読書しすぎて愚かになった学者が多い」とまで言い切る。
三人が、三つの方向を向いている。
立花は「どんどん読め、外に出せ」と話し、小林は「感じろ、魂で触れろ」と語り、ショーペンハウアーは「読みすぎるな、考えろ」と言う。全員が正しいようにも思えるし、三人全員が矛盾しているようにも思える。
けれども夜中の本棚の前に立つと、この三人の声が不思議とひとつに聞こえてくる。たくさん読んで、感じて、そのあと静かに自分で考える——。それだけのことを、三人はそれぞれの言葉で語っているのだ。
ついでに白状すれば、ショーペンハウアーの言う「悪書」——商業主義で作られた流行りの本——を、十代の僕は夢中で読んでいた。あの頃むさぼった本の大半は、たぶん悪書である。でも、それがなければ本を読む習慣そのものがつかなかった。悪書にも使い道はある。
本棚は、自白書
「本棚はその人の履歴書だ」とよく言われる。
でも僕は、こう思う。本棚は自白書——。
履歴書は整えられている。見せていい部分を、見せていい形で記録したものだ。本棚はちがう。何を信じていたか、何を恐れていたか、何に憧れていたか、どこへ行きたかったのか。そのすべてが、雑然と肩をならべている。
現に、クジラとイルカの本が十数冊ある。なぜそんなに買ったのか、いまとなっては思い出せない。自白書のくせに、自白した本人が罪状を覚えていないのである。それでも、確かに熱中していた時期があったことだけは、棚が黙って証言している。本人が忘れても、本棚は覚えている。
『果てしない物語』『ゲド戦記』『ナルニア国物語』——古典ファンタジーの一角もある。ずいぶん昔に書いた和風ファンタジーに、最近また手を入れはじめたのだが、そのつながりも本棚は黙って教えてくれる。
グラスの底に、琥珀色が少しだけ残っている。
ブックスキャナーが「本多すぎ問題」を解決してくれなかったのは、いまとなっては少しよかったと思う。データになった本には、付箋も書き込みも、表紙の裏の感想も残らない。本棚に余白ができる代わりに、自白書の中身が減ってしまう。
最後のひと口を飲み干して、思う。
この書き込みだらけの古い本たちを、もう少し手元に置いておくことにしよう。
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