ヒットの法則はない——映画監督と集合的無意識

机と原稿用紙

「どうすれば、ヒットを飛ばせるんですか」

インタビューの前日、僕はそんなことをずっと考えていた。絶対に聞きだしてやる、と肩に力が入っていた。

リュック・ベッソン監督の答え

とある連載で映画関係者にインタビューをしていた時期がある。リュック・ベッソン監督に会ったのも、その頃のことだ。

『グラン・ブルー』以来のファンだった。『ニキータ』『レオン』で世界的な名声を得ながら、脚本家としても『TAXi』『トランスポーター』などを手掛け、長年にわたって第一線でヒットを飛ばしつづけている。なぜそんなことができるのか。きっと何か法則があるはずだ。小室哲哉さんのように、ヒット曲を生みだす方程式でも持っていて、内緒にしているのではないか——そんなことまで考えていた。

すると、ベッソン監督はあっさりこう言った。「なにがおもしろいかなんて、僕にはわからない。観客がなにに反応するかもわからない。僕にできるのは、おもしろいと感じる要素をとにかくたくさん詰め込むことだよ」肩の力が抜けた。法則なんてない。それが答えだった。

それ以来、何かをつくるとき、文章を書くときも、「ここで読者にこう感じてほしい」「ここをおもしろがってほしい」という計算をやめた。おもしろいと思うことを出し惜しみせず詰め込んで、おもちゃ箱かびっくり箱のようなものをつくる。ただそれだけを考えるようになった。

書きかけの小説と、ナルニアの濁流

あのインタビューのころ、僕は子ども向けのファンタジーの習作をしていた。

もともとミステリーや純文学を書こうとしていたのだが、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』や『モモ』、アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』を読んで、児童文学の奥深さに打ちのめされてしまったのだ。子どものために書かれているのに、大人のほうが考えさせられる、その感動がきっかけだった。

そこから数年かけて、長い物語を書いた。子どもが異界に迷い込み、死んだと聞かされていた母と再会し、冒険して帰ってくる——そんな話だ。書き終えてしばらくして、『ナルニア国物語』を読んだ(映画だったかもしれない)。

クライマックスで濁流がどっと押し寄せて、主人公たちが助かる場面。自分の書いたものと、あまりにも似ていた。アイデアを盗んだと思われても言い訳できないくらい。でも、僕はナルニアを先に読んでいなかった。時代も場所もちがう人間が、必死にイマジネーションを働かせると、同じところに辿り着く。これはいったいなんなんだろうと首をかしげた。

アイデアに持ち主はいない

ユングが「集合的無意識」と呼んだものを、僕は信じている。人間の心の奥底には、個人の経験を超えた、共有された層がある。神話や物語のパターンが時代を超えて繰り返されるのは、そのためではないか。

アイデアの源泉も、おそらくそこにある。

脳をとことん使って、何かを創ろうと本気になったとき、その扉が少し開く。だからベッソン監督のように「詰め込める人」は強い。出し惜しみせず、計算せず、夢中になって詰め込もうとするとき、僕たちは知らずにその深いところへ手を伸ばしているのだ。

「自分にしか書けないものを書け」とよく言われる。でも、ナルニアの濁流を経験してから、その言葉を疑うようになった。アイデアに持ち主なんていない。一人ひとりの心の奥がつながっているなら、「自分だけのもの」というのは、そもそも幻想ではないか。

いまは小説を書いていない。もちろんこれまでに溜め込んだアイデアはたくさん手元に残っている。でもあのテーマは、自分が書かなくてもいつか誰かが書く。そう思うとすっきりする。

おもちゃ箱をつくる

ベッソン監督の言葉は、ある意味でひとつの技術論だったといまはわかる。

計算をやめろ、という技術だった。受けるかどうか、わかってもらえるかどうか、自分らしいかどうか——そういうものを全部脇に置いて、ただ夢中で詰め込む。おもしろいと感じるものを、出し惜しみせず。それが、創造するということの、いちばんまっとうな姿勢なのだろう。

深夜の台所でグラスを傾けながら、ときどきそんなことを考える。この本も、そういうびっくり箱でありたい。食のこと、子どものこと、本のこと、哲学のこと。脈絡がないようでいて、きっとどこかでつながっている。そう信じて、詰め込んでいる。