明日こそ、包丁を研ぐ——切れ味の鈍った日々の中で思う

包丁とトマト

トマトを切ろうとしたら、思ったより皮が厚くて刃が跳ね返された。ぐっと力を込めたら実が潰れた。果汁がまな板に広がった。

切れ味が悪い。

——明日こそ研ごう、明日こそ。

もう何か月もそう思っている。思っているけれど、研いではいない。

砥石はある。数年前、ちょっといいのを買った。これで毎週末、丁寧に研ぐのだ——そのときはそう意気込んでいた。だが砥石は今、シンクの下のどこかで箱に入ったまま眠っている。

一度使ったきりである。あるだけで満足してしまう、これは僕の悪い癖だ。

この記事に書いていること

切れ味の鈍った日々

研ぐのに、たいした手間はかからない。砥石を水に浸して、十分ほど刃を滑らせればいい。どうということのない作業だ。なのにやらない。今度の休みに、時間のあるときにと先延ばしにして数か月、その「今度」が、いつまでもやって来ない。

切れない包丁に人は慣れる。

トマトは押し当てながら切れば、今日のように潰れることはあってもなんとかなる。玉ねぎを刻むと涙で前が見えなくなるけれど、計量スプーンの隣にぶら下げた水中眼鏡をさっと装着すれば問題はない。鶏肉を切るときは包丁を前後に高速でピストン運動させる。糸鋸の要領だ。

確かに余計な力と時間をかけている。わかっている。でも慣れてしまえば、不便も日常の一部になる。

たまに、よその家やキャンプ場でよく切れる包丁に出会う。刃がすっと吸い込まれていくあの快感といったらない。そのときばかりは帰ったらすぐ研ごうと決心する。決心するのだが、家に帰る頃にはきれいさっぱり忘れている。
 

研いでいないものたち

やらなきゃと思いながら放ってあるものは、たぶん包丁だけではない。

車の洗車は、最後にいつ行ったのか思い出せない。領収書は封筒に放り込んだまま、月をまたいで積み上がっていく。登山用具もキャンプ道具も、前回の山の土をつけたまま押し入れで眠っている。

ノートに書きつけた原稿のアイデアのほとんどは、いつのものか忘れてしまった。読み返すと誰か別の人間の混沌とした頭を覗いているような気分になる。

歯医者の定期健診、寝室に置いたままの壊れたテレビの処分……。これを書いていたら、億劫で手をつけていないことが次々に浮かんでくる。

そういえば昔の友人に「今度飲もう」と言ったきり、何年も経ってしまった。明日こそ連絡してみよう。包丁より先に研ぐべき関係というものがある。

僕だけでなく、誰の家にも誰の心にもきっと、研いでいない刃の一本や二本、眠っているのではないだろうか。やればすぐ終わるのにやらない。やらないまま、切れ味の鈍った日々に少しずつ慣れていく。

今日も僕は、切れない包丁でトマトを潰している。

明日こそ研ごう、明日こそ。

——この明日を、僕はいったい何百回、繰り返してきただろう。

それでも明日になれば、また同じことを思うのだろう。

切れ味の悪い包丁で潰したトマトも、それはそれで案外甘くておいしいスープになったりするのだけれど。