数年前、わっぱを買いました。
それまでプラスチックのタッパーだった弁当箱を、なんとなく気になって秋田杉の曲げわっぱに替えたのです。値段は少し張りましたが、後悔はありません。木のいい香りがして、ご飯が冷めてもおいしくて、何より詰めたものが美しく見える。
娘に持たせると、学校でいつも「おいしそうだね」と友達にいわれるそうです。中身が変わったわけではありません。容れ物が変わっただけ。それだけで弁当の見え方がこんなに変わるのかと、ちょっと驚きました。
はやま
ところで、世界を見渡すと、毎朝手作りの弁当を用意して家族に持たせる文化を持つ国は、実はあまり多くありません。日本は、少しばかり特殊な国なのです。
世界の昼ごはんを覗いてみると
昼食の文化は、国によってずいぶん違います。当たり前のように「弁当を持っていく」と思っていますが、世界的に見ればこれは相当にめずらしいこと。
アメリカ——「早くて便利」が正義
アメリカの子どもたちのランチといえば、学校のカフェテリア(食堂)が中心。持参派も一定数いますが、大半は学校で買う。持参するとしても、サンドイッチ、ポテトチップス、りんごかオレンジ、そしてクッキーかチョコバーで一丁あがり。
象徴的なのが「ランチャブル(Lunchable)」というパッケージ商品です。クラッカー、スライスチーズ、スライスハムが小分けになって入っているだけの、いわば組み立て式ランチ。これが子どもたちに大人気でした。でした、と書いたのは、近年は健康への懸念から売上が急落中だから。アメリカの親たちも、便利さより栄養を選びはじめているようです。
いずれにしろ愛情とか手作りとか、そういう概念は最初からないようです(笑)
イギリス——サンドイッチという伝統
イギリスの学校では「パックドランチ(Packed lunch)」という言葉が日常的に使われています。サンドイッチが主役で、クリスプス(薄切りポテトチップス)、果物、チョコビスケットが脇を固めます。
2005年、料理家ジェイミー・オリバーがイギリスの学校給食の質を告発するキャンペーンを行ない、国全体を巻き込む論争になりました。槍玉に上がったのが、ピザやバーガーといった加工食品だらけの給食。栄養より嗜好、手間より速さ——それがイギリスの昼食観の一面でした。
フランス——昼食は座って食べるもの
フランスがおもしろいのは、弁当文化がほぼ存在しないことです。
学校には「カンティーヌ(cantine)」と呼ばれる食堂があり、子どもたちはそこで温かい昼食を食べます。スープ、メインディッシュ、チーズ、デザートの4品構成が基本で、食育と食文化の継承が明確に意識されている。大人も職場のカフェテリアかレストランへ出かけ、「デスクの前でサンドイッチを頬張る」という光景はあまり一般的ではありません(近年は変わりつつありますが)。
フランス人にとって昼食とは、座って、会話して、ゆっくり食べるもの。持ち歩くものではないのです。
イタリア——昼は家に帰る
イタリア、とくに南部では、お昼に一度家に帰って家族で食べる習慣が残っている地域もあります。仕事も学校も昼休みが長く、食卓を囲む時間を生活の中心に置く。弁当という発想はそもそも必要とされない文化圏です。
昼食を「持ち運ぶ」ことより、「囲む」ことに価値を置く国です。
中国・台湾——外食大国と弁当文化の交差
台湾には「便当(biàndāng)」という独自の弁当文化が根付いています。排骨(豚スペアリブ)ご飯や煮卵、野菜炒めなど、ご飯の上におかずがどっさり乗るスタイル。日本統治時代の影響を色濃く残しており、台湾の駅弁文化は今も健在。旅人の胃袋を幸せにし続けています。
一方の中国本土では、調理済み食品の配送に切り替えた学校で品質への苦情が相次ぎ、昼食時間になると弁当を持った保護者が校門に殺到して子どもに手渡す、という光景まで生まれているそうです。
フードデリバリーサービス(外卖/wàimài)も驚異的な勢いで発達しています。スマートフォンひとつで職場や学校に料理が届く時代が到来して、弁当持参の必要性はさらに薄れています。
背景にあるのは「昼食はあくまで午後の授業のための燃料」という割り切った認識です。食育という概念は最初から存在しない。
はやま

弁当文化は、日本ならでは
こうして各国を眺めてみると、日本の弁当文化がいかに特殊か、あらためてわかりますね。でも何がそうさせたのか。
歴史は安土桃山時代から始まる
日本の弁当の歴史は古い。安土桃山時代(16世紀)の花見や能の鑑賞に持参された「花見弁当」が記録に残っており、江戸時代には歌舞伎の幕間に食べる「幕の内弁当」が生まれました。
明治になると鉄道網の拡大とともに「駅弁」文化が花開き、各地の食文化と旅の記憶がひとつの弁当箱に詰め込まれるようになりました。
弁当は、日本人の移動の歴史とともに育ってきた文化なのです。
米が冷めても美味しい、という奇跡
日本の弁当文化を支えた最大の要因のひとつは、ほかでもなく「米」です。
日本で食べられている米は短粒種(ジャポニカ米)で、冷めても粘りと旨みが残ります。これは弁当にとって、とても大切な条件です。長粒種(インディカ米)が主流の地域では、冷めたご飯はパサパサになり、弁当には不向きになる。
日本の弁当文化が発達し、東南アジアの多くの国ではそれほど発達しなかった理由のひとつに、この米の性質の違いがあるといわれています。
考えてみれば、弁当という食文化は「冷めた米でもおいしい」という前提なしには成立しません。その前提を、日本の米はしっかり満たしていたわけです。
だし文化と、薄い味付けの美学
もうひとつ重要なのが、だし文化です。
日本料理の基本は「だしで旨みを引き出し、素材の味を活かす」こと。この調理の思想は弁当ととても相性がいい。冷めた状態でも、だしの旨みは生きています。濃い味付けでごまかさなくても、おいしくいただける。
世界の弁当事情を見渡すと、「冷めたまま食べる文化」を持つ国は意外と少ないのです。フランス人は冷めた料理を嫌がり、中国でも温かいものを食べるのが基本とされます。冷めたままでおいしく、さらに美しくも見える——。
これは和食の強みです。
詰める、という美意識
弁当という文化のもうひとつの核心は、詰めることへの美意識です。
限られたスペースに、色彩・食味と食感・栄養のバランスを考えながらおかずを配置する。赤いトマト、緑のブロッコリー、黄色い卵焼き、茶色のお肉、白いごはん——。弁当箱のなかは、一種のミニチュア絵画。和食が持つ「器と料理の一体感」という感覚が、弁当という小さな箱に凝縮されているのです。
はやま
この美意識は、「キャラ弁」という世界に類を見ない文化を生みました。
キャラクターを模した弁当を作るために親が早朝から格闘するのは、食というよりもはや造形の世界ですが、そんな造形美術や遊び心を受容するほど日本の弁当文化の裾野は広いのでしょう。
「愛情」という言葉が結びついた時代
日本の弁当文化に「愛情」というキーワードが強く結びつくようになったのは、比較的最近の話です。
高度経済成長期以降、専業主婦が増え、子どもの弁当作りが「母親の務め」として固定化されていった時代がありました。そこで生まれたのが、「手作り=愛情」という等式。できあいのものを入れると後ろめたく、手の込んだものを作ればいい親——そんなプレッシャーが静かに広がりました。
フランスの親はカンティーヌに任せるだけで誰も責めない。アメリカの親は既製品のランチャブルを持たせても罪悪感を抱かない。世界的に見て、弁当と「愛情」をこれほど強く結びつける文化は、かなり日本的な発想なのです。
弁当箱を開ける瞬間のこと
わたしが中学・高校時代、母が毎日弁当を作ってくれました。
野菜と魚が中心の、健康的な弁当でした。ブリの照り焼き、ほうれん草のおひたし、ちくわのきゅうり詰め——。どちらかといえば渋いラインナップで、当時のわたしは「おじさんの弁当みたいだ」と思っていました。隣で食べる友人の弁当には唐揚げ、ウインナー、エビフライなど、るんるんなおかずがならんでいて、うらやましかったものです。
でも自分で弁当を作るようになって気づきました。友人の弁当の大部分は、冷凍食品と加工食品だった。それが悪いとは思いませんが、母の弁当はすべて手作りでした。
はやま
弁当というのは、食べている当人には見えていないことが多い。その弁当を作った人が何時に起きて、何を考えながらつくって詰めたかふつうは想像もしない。それは別にかまわない。弁当は、愛情を証明するためのものではないから。
ただ、世界にはいろんな昼ごはんがありますが、弁当という小さな箱に、誰かのため一日の気配をそっと詰める文化は、日本だけが育ててきたものです。
その静かなていねいさを思うと、今日の弁当が少し誇らしくなりました。
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