醤油というのは、気づくと増えている。濃口、薄口、再仕込み、溜まり、白醤油……。最初は「味の違いを知りたい」という、ささやかな好奇心だった。ところが気がつけば、冷蔵庫のポケットが醤油で埋まっていた。
ある日、妻が冷蔵庫を開けて固まった。
「……ねえ、これ全部醤油?」
「全部ちがう味なんだよ」
「全部醤油でしょ」
「いや、これは白醤油で、こっちは再仕込みで……」
「再仕込みとかどうでもいいの。牛乳とぶどうジュースを入れる場所がないの」
妻の怒りはもっともである。しかし僕としては、醤油は調味料ではなく文化なのだ。文化は気づくと増えている。仕方がない。
結局、醤油たちは冷蔵庫から追い出され、台所の棚に引っ越した。棚を開けると、種々の醤油がずらりと並んでいる。壮観である。濃口は堂々とした顔つきで、薄口はどこか控えめ。再仕込みは「わかる人だけわかればいい」という達観したような表情をしている。
——まるで小さな神棚のようだ。
妻はため息をつきながら言った。
「お願いだから、これ以上増やさないでね」
僕は黙ってうなずく。しかし心の中では、次に買う醤油のことを考えていた。九州の甘口も気になるし、能登の杉樽木桶仕込みも試したい。あの蔵元の、淡く輝く白醤油もそろそろ味見してみたい。
醤油というのは、ひとつ買うと次の一本が呼び寄せられる。 最近は台所の棚の前に立つたび、なぜか身の引き締まる思いがする。自然と柏手を打ち、瞑目するようになった。
——醤油の神さま、どうか妻の怒りも時間の経過とともに、まろやかで深いうま味へと発酵させてはくれないだろうか。
そんな都合のいい奇跡を祈りながら、僕はまだ見ぬ次の一本を求めて、今夜もまた蔵元のホームページをこっそり覗いている。
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