仕事で何度か、全国の酒蔵を訪れたことがあります。
蔵の中に一歩入った瞬間、まず匂いに驚きます。甘くてやわらかい、栗か甘酒かというような芳香が鼻をつつむ。麹菌が蒸し米の上で育っているときの匂いです。「発酵」と聞くと酸っぱいものを想像しますが、麹の匂いは違います。
どの蔵を訪ねても、いつも気になったのが杜氏の手でした。重労働の職人の手というのはごつごつしていそうなものですが、まるで逆——指先まで驚くほどすべすべときめ細かい。あるベテランの杜氏に思わず「手がきれいですね」と言ったら、にっこり笑って「麹菌のおかげや」と教えてくれました。
はやま
わたしは兵庫の出身です。播磨平野に育ち、日本酒の産地として名高い灘を身近に感じながら大人になった。でも当時は、自分の生まれた土地と麹菌がどれほど深く結びついているか、まったく知りませんでした。
今日はその話から始めたいと思います。

日本酒の起源は、播磨の野に眠っていた
今から約1300年前、奈良時代のこと。朝廷は各地に「その土地の産物や伝承をまとめて提出せよ」と命じます。これが『風土記』の編纂です。
播磨国(現在の兵庫県南部)でまとめられた『播磨国風土記』に、こんな一節があります。
大神の御糧(みかれひ)が濡れて、かびが生えた。そこで酒を醸させ、庭酒として献上して、宴をした。
神に供えた米の飯にカビが生え、それで酒を造った——。日本に現存する文献のなかで、麹を使って酒を造ったことが記された最古の記録です。この記述から、兵庫県宍粟市にある庭田神社は「日本酒発祥の地」の有力候補とされています。
播磨が酒造の聖地になったのは偶然ではありません。この地には酒造りに理想的な水が湧いています。灘の「宮水」は硬水でミネラルが豊富で、発酵を力強く進める。良質な米と水と麹菌が揃った土地だからこそ、日本酒文化の中心になっていったのです。
はやま

縄文人も、お酒を飲んでいた
では麹菌が使われる以前、日本人はどうやって酒を造っていたのでしょう。
縄文・弥生の時代、おそらく主流だったのは「口噛み酒」です。米や木の実を口で噛み、容器に吐き出す。唾液に含まれるアミラーゼ(でんぷん分解酵素)が糖をつくり、そこに空気中の野生酵母が降りてきて自然発酵する。新海誠の映画『君の名は。』で、巫女を務める女子高生の三葉が何かを噛んで奉納する場面がありますが、あれが口噛み酒です。神社の「御神酒(おみき)」の原型とも言われています。
麹菌を意図的に使いこなすようになったのは、風土記の記述が示すように奈良時代のこと。そこから平安、室町、江戸と技術は磨かれ、いまわたしたちが知る味噌・醤油・日本酒・みりん・酢という日本の発酵食品文化が花開いていきます。口噛みから数えれば数千年かそれ以上、麹菌を意識的に育て始めてから約1300年。
塩麹の瓶のふたを開けるたびに漂うあの甘い香りは、その長い物語の続きです。
麹菌は、日本にしかいない
麹菌(学名:Aspergillus oryzae)は、日本の高温多湿な気候のなかで育まれた菌です。自然界でこの菌が繁殖しているのは日本列島だけとされており、2006年には日本醸造学会が「国菌」に認定しました。日本には国花(桜)も国鳥(キジ)もありますが、国菌があるのは世界で日本だけです。
味噌、醤油、日本酒、みりん、酢——。日本の発酵食品のほぼすべての起点に、この菌がいます。
麹菌はカビの一種で、米や麦、大豆の上で増殖するとき、でんぷんやたんぱく質を分解してグルコース(糖)やアミノ酸に変えます。この分解に使うのが、麹菌が自ら生産する酵素。この酵素の働きが、塩麹の「なぜかおいしくなる」の正体です。
酵素は、止まれない——ポテトサラダの失敗
たとえば肉や魚を塩麹に漬けこむと、プロテアーゼ(たんぱく質分解酵素)が繊維をほぐしながらアミノ酸(うま味)を引き出します。焼いたときにしっとりした食感になるのはこのためです。
ただ、この酵素は時として予想外の働きもします。
以前、ポテトサラダをつくるとき、仕上げに塩麹を混ぜてみました。できた直後はちょうどよい固さだったのですが、しばらく置いておいたら——。ドロドロの液状になっていました(笑)。アミラーゼ(でんぷん分解酵素)がじわじわとポテトのでんぷんを分解しつづけた結果です。酵素は止まらない。
はやま
「塩麹に乳酸菌が豊富」は本当か
塩麹を紹介するとき「乳酸菌が豊富」という説明をよく見かけますが、これは正確ではありません。
塩麹の主役は麹菌と酵素です。乳酸菌はほとんど含まれていません。乳酸菌が豊富なのはヨーグルト、ぬか漬け、キムチなどで、塩麹はそれとは別の働きをしています。
ただ「だから腸に効かない」ということにはなりません。麹菌には腸内の善玉菌を増やす作用があり、酵素は消化を助けてくれます。乳酸菌を期待するなら、塩麹とぬか漬けやヨーグルトを組み合わせるのが賢い選択です。
手づくりにこだわる理由
スーパーでも塩麹は売っています。便利ですが、市販品の多くは加熱処理(殺菌)されています。加熱すると酵素の活性が大幅に低下します。塩麹のいちばんの魅力である「生きた酵素の働き」が、市販品では得にくい。
手づくりは道具も材料もシンプルで、作業時間は10分もかかりません。
塩麹のつくり方
用意するもの
- 乾燥米麹 200g
- お湯 400g
- 天然塩 60〜90g(甘口は60g、辛口は90g)
- 保存容器(ガラスかプラスチック。鉄・ステンレスは塩分で腐食します)
つくり方
- お湯を沸かし、塩を溶かします。
- 60℃くらいまで冷まします。熱すぎると麹菌と酵素が死滅します。
- 容器に乾燥麹を入れ、冷ましたお湯を注いでよく混ぜます。
- 常温で冷まします。
- 以降、毎日1回混ぜながら室温で1週間ほど発酵させます。
- できあがったら冷蔵庫へ。1か月を目安に使い切ります。
完成した塩麹はとろりとして、甘くやさしい香りがします。あの蔵の中で嗅いだ匂いと、どこか似ています。
塩麹漬け野菜のレシピ
わが家の定番です。妻と娘が「おいしいおいしい」と連発するのでヘビーローテーションになりました。
用意するもの
- なす 2本
- きゅうり 1本
- 大根 5センチ分
- 塩麹 大さじ5杯
つくり方
- 野菜を細切りにします。
- 野菜と塩麹をビニール袋に入れ、よくもみ込みます。
- 冷蔵庫で数時間おいたら完成です。
塩もみよりずっとまろやかで、うま味がある。9時間後に食べた野菜はもはや料亭の一品のようでした(ほんとに)。
はやま
突然ですが、罪の告白があります
塩麹を仕込みながら、昔のことを思い出しました。
若いころ、どぶろくを仕込んだことがあります。酒蔵の取材で「家でも造れますよ。海外では自家醸造する家庭も少なくないようですし」と聞いたのがきっかけでした。米と麹と酵母と水だけ。できあがったものは白く濁っていて、少し甘酸っぱくて、ほのかにアルコールがあって——。めちゃくちゃうまかった。
念のため書いておくと、自家醸造は酒税法違反です。いまはやっていません。時効ということで、どうかご容赦を。
ただあの体験で、火入れ(加熱殺菌)をしていない酒には麹も酵母も生きていて、発酵食品としての豊かさがまるで違うということを、体で理解しました。昔の日本人が日常的に口にしていた濁り酒や手前味噌、漬け物は、みんなそういうものだったはずです。
健康寿命は今よりずっと長かったんじゃないかと、ふと思います。心身に何かしら不調を抱えている人がこれほど多い時代に生きていると、なおさら。
ぬか漬けへの道は、塩麹から始まった
実は、わが家がぬか漬けを始めたのは、塩麹で妻を「発酵食品に慣らしていった」あとの話です。
最初、ぬか床には猛反対されました。妻の実家にもぬか床があって、においがきつかったのだそうです。そこで先に塩麹から始めました。においがない、場所を取らない、失敗しにくい。妻の文句の出る余地がない(笑)
塩麹漬けの野菜がおいしいとわかったところで、「ぬか床はこれのもっとすごい版だよ」と話を持ちかけたのが、ぬか漬け生活の始まりです。
冒頭の杜氏さんの手の話に戻ります。麹菌が分泌する酵素には皮膚のたんぱく質に作用するものもあり、毎日麹菌に触れることで手の角質が自然にやわらかくなるからと言われています。台所で毎日塩麹を使う人の手にも、きっと同じことが起きているはずです。
1300年前、播磨の野で神への供え物にカビが生えた。そこから始まった物語が、あなたの台所の一瓶につながっていると想像したら、ちょっとロマンを感じませんか。
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

