当たり前すぎて、誰も教えてくれなかった。——昔の人の生活の知恵を受け継ぐということ

祖母から梅干しづくりを教わる孫

じいちゃんに、聞いておけばよかった。

うなぎの仕掛けの作り方。沢のどのあたりに沈めるか。どの季節に、どの時間帯に。じいちゃんはそういうことを全部、身体で知っていた。でも僕は一度も聞かなかった。じいちゃんが元気なうちは「聞けばいつでも教えてもらえる」と思っていたし。そもそも聞かなきゃいけないとも思っていなかった。

じいちゃんにとって、それは「当たり前」だった。

当たり前すぎることは、伝わらない。誰も教えようとしないし、誰も聞こうとしない。そしてある日、それを知っている人がいなくなる。

「身体知」:本では手に入らない生活の知恵

ばあちゃんはうなぎをさばけた。じいちゃんが沢で捕ってきた、ぬるぬるして力強い生きたうなぎを、台所でさっとさばいていた。でも母はさばけない。むろん僕もさばけない。

うなぎのさばき方くらい、調べればわかる。YouTube で検索すれば、懇切丁寧な動画が何本も出てくる。

失われているのは、そういうことではないのかもしれない。

山菜が芽吹く場所と順番を身体で覚えていること。よもぎをお灸や湿布に使う手つき。魚の鮮度を目ではなく指で判断する感覚。塩と酢だけで食材を長持ちさせるコツ。湿った薪を乾かす方法。火の音で温度を読むこと。灰の使い道。土の匂いで今日は植えてはいけないと判断すること。風邪のときの本当の養生——。

こういうものは動画でも、本でも、おそらくは身につかない。隣に立って、一緒にやってみて、「ちがう、こうだ」と手を添えてもらって、初めて体が会得する。何千年もかけて磨かれ、人から人へ渡されてきた知恵だ。

「身体知」ともいう。頭ではなく、体が覚えているもの。

IHになって、消えたもの

火の音で温度を判断する必要が、IHにはない。ガスコンロもだ。冷蔵庫があるから、塩と酢で食材を保存する知恵は出番を失った。魚はパック詰めされて切り身で売られている。鮮度を指で確かめる前に買い物が終わる。ドラッグストアがあるから、野草で応急処置をする機会もほとんどない。

便利になった。間違いなく——。

でも便利さと引き換えに、先達の知恵を使う場面そのものが消えていった。使わなければ、伝わらない。伝わらなければ、消える。こうして身体知は、IHのスイッチが普及するよりずっと速いスピードで、静かに姿を消しつつある。

はやま

うちの親父は長年、家庭菜園をやっています。土の匂いで「今日は植えちゃダメ」を判断できるのか、雨の前後でやるべき作業の違いを身体で知っているのか——。一度も聞いたことがない。知ってるかどうかさえわかりません(笑)。ただ聞かずにいるのは惜しい気がするから、近いうちに一度、聞いてみようと考えています。

遅すぎるということはない

まだ間に合います。

その知恵を身体のなかに持っているお年寄りが、まだ生きている。田舎にはとくに、そういう人たちがいる。土地と長年対話してきた人たちが、まだいる。

だから僕は、なるべく早く生活の拠点を田舎へ移そうと思う。

ご存命のうちに、直接話を聞きたい。教えてもらいたい。頭でなく体で覚えたい。それをまた、次の誰かに渡したい。

受けとって、渡す。それだけのことが、いまの時代とても難しくなっている。

じいちゃんとばあちゃんから受けとれなかった後悔が、僕にそう思わせている。

「受け継ぐ」は、そのための場所です

塩の話を書きました。味噌の話、醤油の話、みりんの話も書いた。うなぎの話も。

どれも、昔の人たちが当たり前のように知っていて、当たり前のように次の世代に手渡してきたものだ。その「当たり前」が、当たり前でなくなっている。だからこそ、書き留めておきたいと思う。

書くことは、受け取ることの一形式だと思っています。調べて、考えて、言葉にする。その過程で、僕自身が先達の知恵を少しずつ受けとっている。それを読んでくれた誰かにも、少し渡せるかもしれない。

当たり前すぎて、誰も教えてくれなかったこと。

でも本当は、ずっと必要だったこと。

そういうものを、ここに集めていきます。

発酵食品

ぬか漬け

調味料・食材

出汁・行事食

受け継ぐ、ということ