夕方、仕事を終えて台所に立つ。なんとなく口寂しい。チョコレートを探すほどでもないけれど、何かほしい。そんなとき僕は台所の棚から黒糖をひとかけ取り出して、口に放り込む。
少し癖のある甘みとコクが、じわりと広がる。疲れた体になじむ。
ただ正直に言うと、黒糖がこんなに身近な存在になるとは、以前は思ってもいなかった。長いあいだ、黒糖は自分で買うほどのものではなかった。あの独特の白砂糖にはない濃い甘みが、あまり得意ではなかったのだ。
それが変わったのは、ある仕事で沖縄の離島を訪ねたことがきっかけだった。
この記事に書いていること
海の見えるサトウキビ畑
石垣島からフェリーで渡った小さな島の丘には、一面、サトウキビ畑が広がっていた。風にさわさわと揺れるサトウキビの穂先と、その向こうに広がるエメラルド色の海。あの光景は、いまも脳裏にくっきりと焼きついている。
製糖の現場を案内してもらった。刈り取ったキビを搾り、加熱し、煮詰めていく。職人はシロップの色や香り、粘りを確かめながら、火加減を調整していく。煮詰める前のシロップを味見させてもらうと、意外なことに、あの特有の香りがほとんどない。黒糖の深い風味は、火と時間と人の経験が加わって、初めて生まれるものだった。
それだけのことなのに、黒糖がちがって見えるようになった。
日本酒もそうだった。三十代の半ばまでまったく飲まなかったのが、酒蔵を訪ねて、杜氏の話を聞き、発酵の現場を肌で感じてから、少しずつたしなむようになった。知ることと感じることはちがうのだ。頭で知っているだけのことも、体で感じると別の何かに変わる。
帰り道、石垣島に戻って、せっかくだからと琉球ガラスのロックグラスをひとつ買った。黒糖の写真を撮るための小道具として。青く透き通った、美しいグラスだった。気に入って、その後もずっと大切に使っていた。
そのグラスだが、残念ながらいまはない。妻が割ったからだ。この話はあとでするとして、黒糖の話に戻ろう。

黒糖と白砂糖のちがい
原料はサトウキビで、その搾り汁をそのまま煮詰めて固めたものである。製法は至ってシンプル。成分の足し引きはしない。だから糖分の他にサトウキビが持つカルシウム、カリウム、鉄などのミネラルやビタミンB群がそのまま残っている。糖分がおよそ九割、残りが水分やミネラルなど、というのが黒糖のおおまかな中身だ。
一方、白砂糖はサトウキビやてん菜から、糖蜜を取り除いてショ糖だけを高純度で取り出したもの。成分のほとんどが糖分で、ミネラル類は精製の過程でそぎ落とされている。
つまり、黒糖と白砂糖のちがいは、甘さの質だけではない。片方にはサトウキビの中身がほぼ丸ごと残っていて、片方には糖だけがある。どうせ甘味料を使うなら、僕は黒糖を選ぶ。
もちろん黒糖も糖分だ。大量に食べていいものではない。ただ、糖質オフを目指して我慢を重ねるより、甘味料の選び方を意識するほうが長続きする。食の楽しみも残る。我が家はそちらの方針だ。
本物の黒糖を選ぶ
ひとつだけ、黒糖を選ぶときに注意していることがある。
店先で黒っぽい砂糖を見かけても、それがぜんぶ本物の黒糖とは限らないのだ。原材料欄に「粗糖、糖蜜」などと書かれているものは再製糖——いったん精製した砂糖に糖蜜を混ぜ直したもので、見た目は似ているが、製法も中身も別物である。
本物の黒糖の原材料は「さとうきび」だけ。塩でも味噌でも、原材料がシンプルなものほど本物に近い。和食の調味料に共通する話だ。
我が家の黒糖の使い道
我が家での黒糖の出番は、主に三つ。
まず、コクが欲しい料理に少量。カレーやすき焼きなど、甘みとコクを同時に加えたいときに重宝する。みりんと組み合わせると、和食らしい甘みが生まれる。入れすぎないのがコツで、なんとなく深みを感じるくらいがちょうどいい。
次に、梅しょう番茶。梅干し一粒、生姜のすり下ろし、醤油少量を番茶に合わせた、我が家の定番ドリンクだ。ここに黒糖をひとかけ加えると、ぐっとまろやかになる。寒い朝や疲れた夜に飲みたくなる一杯である。
最後にそのままひとかけ。口寂しいとき、疲れたとき、そのまま口に放り込む。それだけで元気が出る。
気が向いたら、産地ごとの食べ比べも面白い。沖縄の黒糖は八つの離島の工場がそれぞれに作っていて、島ごとに味が異なる。まろやかなものもあれば、サトウキビの青みが少し残るものもある。東南アジア産の黒糖と並べて食べると、ちがいはさらに明確になる。好みのひとかけを探す——。地味ながら、なかなか楽しい。
琉球ガラスと百均のロックグラス
さて、琉球ガラスの話である。
台所の棚の、同じ場所には現在、青く透き通ったロックグラスが二個並んでいる。妻がお詫びにと探してきてくれた品である。
百円ショップのものだから、本物とは材質も重みもまるでちがう。それでも使うたび、あのエメラルド色の海、風に揺れるサトウキビ、製糖工場の甘い香りがよみがえってくる。
旅の記念品というのは、それ自体は本当はどうでもいいのだと、そのとき思った。ふだん忘れている懐かしい記憶を引っ張り出してくれるなら、百円で十分なのだ。黒糖も僕にとっては同じだ。ひとかけ口に含むと、いまも頬に南国の風が吹く。
その横で妻は、今日も元気に何かを割っている。
- 虫取り網が教えてくれること。センス・オブ・ワンダーと、子どもと過ごす夏の話
- 塩を切らして途方に暮れる。——精製塩をやめて気づいた、いちばん大切な調味料の話
- 祠に手を合わせる杜氏たち——日本酒とみりん、醸造の主役は菌である
- 罪悪感ゼロのチョコレートと、フィジーの記憶——ココナッツオイルと暮らす話
- においだけが、記憶に直接届く——出汁の香りと、娘の一生の話
- 母のちらし寿司と、三月の匂い——五節句と、行事食が運ぶもの
※このブログの情報は、医療機関の監修を受けておらず、病気の診断、治療、予防を目的とするものではありません。記事内でご紹介している効果効能についても栄養素や成分に関するものであり、商品やサービスに関するものではないことにご注意ください。体調不良が長く続く場合は、医療機関で相談することも大切です。食卓でできること、専門家の力を借りること、その両方が、あなたの体を支えます。

