みそ汁ひとつから——ゲーム・暴力・ADHD、ある家族の話

キッチンで味噌汁をつくるママ

食事の相談を受けていたはずだった。

「最近、外食や惣菜が多くて。子どもにもうちょっとちゃんとしたもの食べさせたいんですけど、何から始めたらいいのか……」

ランチをしながら聞いていた。よくある相談だ。みそ汁のこと、玄米のこと、発酵食品のこと——そういう話をするつもりだった。

ところが話は、思わぬ方向に転がり始めた。

「そういえばさ、うちの子のことなんですけど……」

そこからはもう、芋づる式だった。一本引っ張ると、次から次へと出てくる出てくる。気づいたらコーヒーが二杯目になっていた。

見えてきた「本当の問題」

話をまとめると、こういうことだった。

小学校5年生の男の子。成績は振るわない。乱暴で、ほかの子に手が出ることがある。Nintendo Switchを常に手放せず、ルールを決めても守らない。きつく言うと暴れる。下に弟がいるが、面倒を見ようとしない。

聞きながら、頭のなかで少しずつ整理が進んでいた。

これはゲームの問題じゃないな。

ゲームをやりすぎる子どもの話は、わたしも以前に子育て媒体で記事を書いていたころ、嫌というほど聞いてきた。そのときの経験と、脳科学者への取材、その後に調べたことを総動員して考えると——。この子の話は、ゲーム依存の問題というより、情緒の不安定さ・衝動性の強さ・自己コントロールの弱さが複合的に絡まったケースに見えた。

ゲームは「原因」ではなく「結果」だ。不安や退屈や劣等感の逃げ場として、ゲームがそこにある。だから取り上げても、問題は消えない。逃げ場がなくなるだけだ。

はやま

こういう子の話を聞くと、昔インタビューした漫画家さんのことを思い出します。ADHDの子どもを持つ方で、診断が出るまでの長い長い道のりをコミックエッセイにされていた。「気づいてもらえない期間が、いちばんしんどかった」という言葉が今も残っています。

パパの「捨てる」という解決策について

話を聞いていて、もうひとつ気になることがあった。

「パパがね、カッとなるとゲーム機を全部捨てちゃうの。もう3回目なんだけど」

「……3回目」

「で、子どもが泣いて謝るから、また買い直して」

なるほど、と思った。パパとしては「本気で怒っている」を見せているつもりなのだろう。気持ちはわかる。でもこれ、子どもの目線から見ると、かなり怖い体験だ。

大切なものが突然なくなる恐怖。なぜそうなったかより先に、怒りと混乱が来る。そしてしばらくするとまた戻ってくる——。この繰り返しは、子どもに「ルールには意味がない」「感情が爆発すれば何とかなる」というメッセージを、意図せず送り続けていることになる。

「パパさんが心配してるのは伝わってると思う。でも”捨てる”は子どもにとって恐怖が強くて、かえって問題行動が増えやすいんですよ。夫婦で同じ対応をすることが、いちばんの近道なんだけど——」

「パパはね……」と彼女は少し困った顔をした。

話を聞けば聞くほど、パパは仕事と趣味に全力投球のタイプらしい。相談もなく次々と車を買い替え、バイクを購入し、休日はそれをいじるかツーリングに出かけるか。子育てへの関与は薄く、関わるときは怒るときだけ——。ある意味でわかりやすいキャラクターだった。

(このパパ、ある意味で子どもと同じタイプじゃないか、という考えが頭をよぎったが、口には出さなかった)

「ADHD」という可能性

注意が必要なのは、わたしは医療の専門家ではないということだ。「この子はADHDだ」とは言えないし、言ってはいけない。

ただ、ADHD(注意欠如・多動症)的な特性を持つ子には、いくつかの共通したパターンがある。衝動性が強い、感情の爆発が激しい、物事の切り替えが苦手、生活リズムが乱れやすい、成功体験が少なく自己肯定感が低い——。今わたしが聞いている話は、そのパターンとかなり重なっている。

「保育園のころ、先生にちょっと言われたことがあったんですよね」

「え、なんて?」

「なんか、気になるところがあるって。でもそのときはあまりピンとこなくて、笑って流しちゃったんです」

これは、本当によくある話だ。「まだ小さいし」「男の子はみんなそんなもの」「そのうち落ち着く」——当時はそう思える。でもADHD傾向の子は、小学校高学年から中学生にかけて問題が一気に表面化することが多い。今がまさにその時期だった。

もうひとつ知っておいてほしいのは、学校の先生は「お子さんはADHDかもしれません」と言えないということだ。法律上、教員が診断名を示唆することは許されていない。「気になるところがあります」「専門機関に相談してみるのもいいかもしれません」——言えるのはそのくらいだ。学校が何も言わない=問題がない、ではない。言えないから言っていないだけ、というケースが実はとても多い。

「一度、スクールカウンセラーか発達相談に行ってみてもいいかもしれませんよ。診断名をつけるためじゃなくて、”どう関わればうまくいくか”を教えてもらうための相談なんだと思えば、ハードルが下がるんじゃないかな」

「うーん、そうですよね」

彼女は少し考える顔をした。完全に納得した顔ではなかったけれど、否定もしなかった。

このママに届く言葉

正直に言えば、わたしはこのあたりで少し考えあぐねていた。

外部の支援機関を勧めたのは本心だ。家庭だけで抱えるには、このケースは重すぎる。でも、彼女がすぐに動くかというと——。話を聞く限り、そう楽観的にはなれなかった。

ランチの帰り道、ママ友に会えば屈託なく笑っている。悩みは相談するけれど、本気で解決しようとする切迫感は、少し薄い気がした。どこか他人事というか——いや、これは責めているわけじゃない。人はそれぞれのペースで動く。「深刻に受け止めすぎないこと」が、ある種の生存戦略として機能していることもある。

ならば、今わたしにできることは何か。

考えて、気づいた。料理だ。

「食事をちゃんとしたい」——。それが、今日この話が始まったきっかけだった。子育てでも夫婦関係でも専門機関でもなく、彼女が自分から「やってみたい」と思っているのは、料理だ。ここが、この家庭で唯一動かせるレバーかもしれない。

みそ汁ひとつから

腸内環境と情緒・集中力の関係は、研究でも少しずつ明らかになってきている。発酵食品や食物繊維が腸内細菌のバランスを整え、気分の安定や集中力によい影響を与える可能性があるという報告もある。ADHD傾向の子への食事療法については、まだ研究途上の部分も多いが、少なくとも「食事を整えることで悪くなる理由はない」とも言える。

でもそういう話を、このママにするつもりはなかった。

「腸活を本格的に」とか「発酵食品を毎日」とか言った瞬間に、遠い目をされるのが目に見えている。

だからこう言った。

「難しいことはしなくていいですよ。まずみそ汁ひとつだけ。インスタントじゃなくて、だしをとって、豆腐かわかめか、冷蔵庫にあるものを入れるだけ。それだけでじゅうぶん。料理って、ちょっと工夫するとすごく楽しいですよ。子どものためというより、まずはママが楽しめることが大事」

「それくらいならできるかも」

表情が少し変わった。

そこからの話は早かった。納豆を週に2、3回。野菜をひとつ増やす。夜は温かいものを出す——。ひとつできたら、またひとつ。そういうふうに、少しずつ足していくことにした。

みそ汁が食卓に出ると、家の空気が変わる。子どもがそれを食べる。「おいしい」と言う。ママが少し誇らしくなる——。その小さな連鎖が、家庭というものを静かに動かしていくことがある。理屈より先に、体と感情が変わっていく。

食卓は、家族の一番やわらかい場所だ。

はやま

しばらくして、「みそ汁、続けてます」と連絡が来た。子どもが「今日のみそ汁なに?」と聞くようになったと。たったそれだけのことが、なぜかうれしかった