主語のないトイレと、娘の反撃

トイレ

土曜の夜は毎週、好物の刺身を食べることにしている。

我が家では、買い出しは基本的に週一回だ。土曜の昼間にスーパーでまとめて一週間分を調達し、冷蔵庫と冷凍庫にストックする。足りないものがあるときだけ、お店かネットで買い足すのである。

そんなわけで消費期限が一日とない刺身は土曜だけの楽しみとなっている。今夜はその土曜日だ。

目の前には冷えた純米吟醸と、脂の乗ったブリの刺身がある。

涼しげな江戸切子のぐい吞みに酒をそっと注いでから、ブリを一切れ、箸でつまむ。醤油にちょんとつけて、舌の上に置いた。ゆっくりと噛みしめる。養殖ブリ特有の甘みがじわりと口の中に広がっていく。

そのとき気がついた。わさびがない。

台所でハンバーグを焼いている妻に向かって声をかける。

「おーい、あれ取って」

妻はこちらをちらっと見て、何も言わずに冷蔵庫から練りわさびを取り出し、手渡してくれた。二十数年も一緒に暮らしていればどこもそんなものだろう。言わず語らずのうちにわかり合う。それが家族というものの気安さだ。

ぬか床ともかれこれ十年以上のつき合いになる。彼らだって言葉はいらない。以心伝心の間柄である。

翌日のこと——。

僕は朝から原稿書きに熱中していた。めずらしく筆が乗っていたため、だいぶ前からもよおしていたのを先延ばしにして、頭に浮かぶ言葉を懸命にタイプしていた。だがついに我慢の限界がやってきた。

すっと立ち上がり、やや前傾姿勢で部屋を横切り、トイレへ向かう。誰か入っているようだ。ドアをノックしながら声をかける。

「まだかかる?」

返事はない。

「あと、どのくらいかかる?」

そう言って、扉を三度叩いたら、娘の声が中から聞こえてきた。 

「何が? 主語がないとわからないんだけど」

主語がない?

うむ。確かに僕の問いには主語がなかった。だがここはトイレの前だ。ドアを挟んで、中に娘、外では僕がもじもじしている。この状況で「我が国の財政赤字の解消にはあとどのくらい時間が必要か」とか「この星の寿命はあとどのくらい残されているか」などと議論を吹っ掛けることがあるだろうか。

時間以外に何があるというのだ。いや、もっと正確に言うなら、僕の問いの主語は「お前の排泄」である。中ではトイレットペーパーが回転するからからと乾いた音がしている。

いまにも失禁しそうだ。悪寒が走る。下腹部が笑う。

長年、文章を書くことを生業にしてきた男が、十代の小娘に主語の欠落を指摘されるとは。トイレの前で身悶えしながら、5W1Hを求められるとは——。

「時間に決まってるだろ。まだかかるのか?」

絞り出すようにそう言ったとき、扉がガチャリと開いて、娘が出てきた。「どうぞ」と涼しい顔で言って、そのまま洗面所に向かう。

僕はトイレに駆け込んだ。目をつぶり放尿の快感に身をゆだねながら考えていた。

日本語とは、主語を省略することで余白を作る美しい言語だ。足りない言葉を互いに補い合うことで、情緒的なコミュニケーションが生まれるのである。

思春期の娘にはその余白はただの手抜きとして映るのだろうか。

そもそも日常的に言葉が足りていないのは、むしろ娘のほうだ。主語どころか目的語でさえ平気で省く。だから聞き直すのは日常茶飯事だ。「何を?」「誰が?」——そこまで考えて、僕はどきっとした。

お返しだったのだ。

日頃の僕のうるさい文法指導に対し、娘はもっとも効果的なタイミングで、強烈なカウンターを放ってきたのだ。

トイレを出たら、妻が玄関にいた。僕に気づいて言った。

「食パン買いにコンビニ行くけど、何かほしいものある?」

少し考えて僕は答えた。

「ならビール一本お願い。キリンの一番搾り。五百ミリリットル。青い色した……」

「いつものでしょ。わかってるよ」

妻はそう言って出かけて行った。