神さまの山は傷ついていた——父と娘の武甲山、秋の登山記録

武甲山

国道二九九号線を曲がり、武甲山への一本道に入ったとき、何か変だと思った。路面が白いのだ。砂のような粉が積もっていて、ダンプカーが通るたびに白煙が舞い上がる。山を見上げると、片側の斜面が根こそぎ削り取られていた。

武甲山ぶこうさん(一三〇四メートル)は、石灰岩の採掘場である。大正時代に採掘が始まり、高度成長期に急速に山容が変わっていった。秩父盆地からこの山を見上げると、その痛々しさは遠くからでもはっきりとわかる。昔の山頂はすでに削り取られ、縄文時代からの遺跡も消滅しているという。かつては緑豊かな山だったそうだが、その面影もない。

正直なところ、歩く前から少し憂鬱だった。この山で娘に何を見せられるのだろう。

狼が守る、神の山域

一の鳥居の駐車場に着いたのは、午前十時過ぎだ。十一月初旬の週末で、路肩にはすでに車がずらっと連なっていた。登山客に人気があることは知っていたが、想像以上である。

一の鳥居
一の鳥居

鳥居をくぐるとき、娘と二人、足が止まった。両脇に獅子ではなく狼の石像が座っていたからだ。

大神の狛犬
狼の狛犬。歯がすべて牙のように尖っている。ちょっと怖い

以前一人で歩いた武蔵御嶽神社など、山岳信仰に根ざしたお社では古来、狼が狛犬の役を担ってきた。山の神の使いは獅子ではなく、狼だ。日本各地の山岳信仰で狼は大神おおかみとも呼ばれ、田畑を荒らす猪や鹿を追い払う守り神として篤く崇められてきた。

一の鳥居の石像はかなり古びていて、苔が生えていた。それでもその眼はいまも、山の入口をじっと見張っている。

「なんでライオンじゃないの?」娘が言った。

「狼は、山の神さまのお使いだからね。ここに鳥居があるのに神社はないだろ?」

「うん」

「ずっと昔の人たちは、この山ぜんぶを神さまとして崇めてたんだ。山岳信仰と言うんだよ」

「山が神社なの?」

「そんなとこ。山頂にヤマトタケルゆかりのお社はあるけどね」

「じゃあ、ちゃんとお参りしなきゃね」

その言葉をきっかけに僕らは歩き出した。

精霊の棲みか

まずは杉林の中を行く。沢沿いの道はわりと平坦で、澄んだ水音が左手から聞こえる。道すがら、ニジマスの養殖場を見かけた。釣り場かもしれない。どちらにしても、きれいな伏流水がたっぷりと湧き出る山なのだろう。

杉林を歩く娘
なだらかな坂道を元気良く歩く娘
沢
澄んだ水が勢いよく流れる沢

しばらくすると傾斜が急になってきた。樹冠の隙間から落ちてくる木漏れ日が地面をまだらに照らす。光と影がゆらゆら揺れる足元を見ながら歩いていると、なにやら浮世離れした気分になる。精霊でも棲んでいそうな気配がある。水の音が次第に大きくなってくる。やがて不動滝が現われた。

緑豊かで神秘的な森
まるで精霊たちの棲みか。痛ましい外見からは想像もつかない緑豊かで神秘的な山だ

不動滝から水を運ぶ

岩間から清冽な水が流れ落ちている。滝のそばに立て看板があり、こうあった。

——山頂のトイレは雨水を利用しているため、慢性的に水が不足しています。このペットボトルに滝の水を入れて山頂まで運んでください。

それを見て、娘は黙って二リットルのペットボトルを拾い上げ、パイプから出る滝の水を汲んでザックに入れた。僕も娘に倣って五リットルのペットボトルを手に取り、ついでに水筒の水も入れ替えた。

不動滝
不動滝
祠
不動滝の先にある祠

大杉の広場にある巨木

傾斜がきつくなってきた頃、娘の歩みが少し遅くなった。それでも休まず登り続け、大杉の広場に着いた。

大杉というだけのことはある。周囲の木がすべて子どもに見えるほどの巨木である。娘は両腕を広げて幹に近づき、しばらく黙って見上げていた。それから振り返って叫んだ。

「両手を広げたよりおっきい!」

娘と大杉
大杉と娘
大杉
威風堂々とした存在感に気圧される

樹齢は四百年とも五百年とも言われている。植林した杉は通常、六十年ほどで切り倒され建築資材になるそうだが、この杉だけはご神木として伐採を免れ、何百年ものあいだこの山を守り続けてきたのだ。僕は自然と手を合わせ、頭を下げていた。

不審者から逃げる不審な小学生

大杉の広場を過ぎると、丸太を並べた階段がずっと続く。単調な登りだ。娘も少し退屈そうにしている。

すると突然、娘が駆け出した。あまりに退屈でしびれを切らしたのかと思ったら、ちがっていた。

「後ろから大人の男の人たちが追いかけて来る」

娘が声をひそめて言った。

杉木立と丸太の階段
丸太の階段は、娘も僕も苦手

振り返ると、大学生らしき男性が四人で登ってくる。といってもただの登山者だ。不審な様子などない。いったいなんのプレイが始まったのかと思ったが、娘はいたって真剣だった。

けれども、逃げても逃げても距離は縮まらない。結局、山頂で一緒になり、話してみるととても気のいい青年たちだった。記念写真まで撮ってくれた。娘は、彼らを不審者扱いしていたことを気づかれていないと思っていたようだが、たぶん気づかれていた。カメラを渡すとき、僕が「さっきはすみませんね」と言ったら、一人が首を振って、娘をちらっと見て複雑な笑みを浮かべていた。

御嶽神社と、二億年前の石灰岩

山頂に着くと、正午をだいぶ過ぎていた。

担いできた水をトイレ近くのマンホールに流し入れてから、お社に向かう。御嶽おんたけ神社は、風雨から守るための建物に囲まれて静かに佇んでいた。二礼二拍手一礼。神社の傍らの案内板に、武甲山の成り立ちが書いてある。

武甲山御嶽神社を参拝
御嶽神社。ここにも狼の狛犬。お社そのものは外から見えない

この山の北半分は、二億年前の石灰岩からなる。採掘が始まったのは大正時代で、高度成長期に採掘量が一気に増えて、急速に山の形が変わっていった——。

二億年。人間が現われるはるか前にできた岩を、人間がここ百年ほどで削りつくそうとしている。時間のスケールがあまりにちがいすぎて、ちょっとめまいがした。

傷ついた山から望む、秩父の街並み

御嶽神社の奥に鉄柵があり、その先が展望台になっている。柵のすぐ向こうは、採掘によって切れ落ちた崖だ。眼下に秩父盆地の街並みが広がり、その向こうに奥秩父の山並みが連なっている。

武甲山山頂
武甲山の山頂

この日は少し霞がかかっていたが、それでも息を呑む眺望だった。空気が澄んでいれば、浅間山や赤城山なども望めるという。足元では生々しい傷口がむき出しになっているが、武甲山は昔と変わらず秩父の人々の暮らしを見守り続けている。

秩父の街並み
盆地に広がる秩父の街並み

山の水で味噌汁を作る

神社の前にシートを広げ、早起きして詰めた弁当を広げた。玄米おにぎりと唐揚げと野菜炒め、それから香の物。バーナーで湯を沸かし、味噌汁を作る。いちおう一汁三菜だ。娘はうれしそうにパクついている。

「うまいか?」

「うまい」

「これ、飲め」熱々の味噌汁をマグカップに入れて差し出すと、娘はずずっとすすって「あぢ」と言った。

「うまいか?」

「うまい」

「この山の水だ」

「うまい。いつもよりうまい」

下山後は、秩父の蕎麦

下山を始めた頃には、午後二時を回っていた。

山の中は、この時間になると急に暗くなる。杉林はとくにそうだ。急ぎ足で慎重に下りていく。娘は下りのほうが得意で、登りの数倍は速い。気温が下がり、沢の水音が冷たく聞こえてきた。

娘と下山
密集した杉林は日差しが差し込まず、昼間でも薄暗い。下草もほとんど生えない
娘、武甲山にて
今日も頑張った

この日も無事に下山し、お約束の蕎麦を食べた。秩父は質の良い蕎麦粉、きれいな水、手打ちの文化の三拍子そろった蕎麦の街だ。娘は大盛りを頼み、あっという間に平らげた。山歩きのあとの腹は底なしである。

帰り道、車の窓から武甲山を見上げた。やはり痛々しい。

でも、あの山を歩いた体は知っている。山全体を覆う神秘的な空気、清冽な水の流れ、神が宿る杉の巨木。二億年の時間が堆積する頂に立ったときの不思議な高揚感と、四人の大学生から必死で逃げていく娘の小さな背中も——。

あの山からは、いまも清らかな水がこんこんと湧く。娘はその水を二リットル、山の上まで運んだ。