「ある、たぶん。」——10年前の日記を読み返して

日記

古いメモが見つかった。

スマホの奥のほう、もう開くこともなくなった場所で、10年以上前の日記が眠っていた。あの子がまだ小学校にあがる前の記録だ。

読みはじめるとすぐ、あのころの娘の姿がありありと浮かんできた。

介護老人のくだり

2015年1月12日の日記にはこう書いてあった。

ふろあがりに裸で涼んでいたら、娘がパンツとティーシャツ、ズボンを持ってきてくれた。立て、というから立ちあがったら、ズボンを履かせてくれた。「わしゃ介護老人か」などと言いながらきゃっきゃっと笑いあった。愛いやつである。

娘はそのとき5歳か6歳。あの子は小さいころから、世話好きというか、仕切り屋というか、そういうところがあった。父親にズボンを履かせて、どんな顔をしていたんだろう。

同じ年の2月にはこんな記録もある。

冷蔵庫を開けたら、いつのまにか貼られたシールが一枚。食卓の下で、娘の足がそっと僕の足に触れてくる。トイレにしゃがむと、ポケットから小石がぽとりと落ちた。読みかけの本の端で、知らない落書きが小さく笑っていた。 いま僕の毎日は娘とともにある。

あのころの家は、娘の気配でいつも満ちていた。

この描写には、当時の生活がぜんぶ入っている気がする。説明なんて何もないのに、冷蔵庫のシールと、ポケットの小石で、当時の空気がそのまま蘇ってくる。

おっぱいをたしかめた話

2017年の冬には、こんな事件があった。

ここ数日、煎り大豆をたくさん食べている。節分用に買ったものをつまんだら、癖になったのだ。娘も食べたがるから、「食べすぎはよくないらしい。女性ホルモンと同じ働きをするから、パパのおっぱいが膨らんできちゃう」などと冗談をいったら、それからしばらくして膝のうえに乗ってきて、くすぐりあっているときに胸をもんできた。おっぱいがふくらんだかどうかをたしかめているらしい。かわいい。

「かわいい。」で終わるこの日記、当時の自分の顔が目に浮かぶようだ。

深夜3時半のグーサイン

4つの記録のなかでいちばん好きなのは、2017年5月の日記だ。

深夜3時半ごろにベッドに入ろうとしたら、娘が僕の布団にいた。そのまま寝かせておいてやろうと、開いた細長いスペースに身を横たえると、娘が一回転して隣のベッドへ移動してくれた。薄目が開いているから、起きているのかと思って頬をなぜてやるとにこりと微笑んだ。微笑み返した。娘が親指を立てて、グーというジェスチャーをした。夕方に僕の着替えを持ってきてくれたときも同じことをしていた。それにしてもかわいい。

深夜3時半。薄目を開けて、グーサイン。また「かわいい。」で終わっている。

こんな子どもがいる父親というのは、世界でいちばん幸せな人間のひとりだと思う。あのころはそれに気づいていなかった。忙しかったし、疲れていたし、叱ることもあった。

いまの娘の話

あれから9年。娘は高校生になった。

化粧をして、マニュキュアを塗って、イヤリングをつけて、好きなバンドの動画を見て、友達と出かけていく。世界の中心は、完全に家の外に移動した。当然だ。

先日、シャワーを使っていた娘から「急にお湯が出なくなった」と呼ばれた。見に行くと水栓が故障していたので、「強く押したりしてないか」と聞いたら、「してない」と言って、そのあとずっと不機嫌だった。

リビングでYouTubeのダンス動画を見ながら踊っているから、ほほえましいなと思ってクスッと笑ったら、ぱっとダンスをやめて「なんで笑うの? わたし笑われるの大嫌いなんだよね」とぷんぷんした。

難しい生き物である。

とはいえ、自分の高校時代を思い返せば、似たようなものだった。母親にいちいち干渉されて、毎日のようにぶつかっていた。だからいまは、基本的に好きにやらせている。子育てに「こうあるべき」はないと思っているし、あったとしてもそれはたいてい親のエゴだ。

ある、たぶん。

日記を読み返して思うのは、あのころの毎日がずっと続くような感覚でいたことだ。石ころがポケットから出てくる日々が。深夜のグーサインが。そういうものが、いつまでも続くような気でいた。

やりなおせるなら、絶対に叱ったりしない。毎日溺愛する。叱ったことを後悔しているわけではないが、もし知っていたら——あの毎日が思ったよりずっと短いと知っていたら、もっと違う接し方ができたかもしれない。

でも、それを知る方法は、たぶんない。子育ては一度しかできないし、後から読み返せる日記も、書いているときには未来のことがわからない。

はやま

いまの娘にも、いいところはあります。思い出せないけれど、ある。きっとある。あると思う、たぶん。あるんだろうか……。冗談です。どれだけ雑に扱われようとも、どれだけ傷つくことを言われようとも、どれだけ見た目が変わり果てようとも、どれだけ……(笑)

まあそんなもんです。子どもの「センスオブワンダー」について書いた記事で、レイチェル・カーソンのことを取りあげました。彼女はこう言った。「子どもと一緒に世界を発見する喜びを、新鮮な目で見つめなおすこと」が大切だと。

高校生の娘と「世界を一緒に発見する」機会は、いまはほとんどありません。でも、あの深夜のグーサインを知っている。ポケットの小石を知っている。その記憶は、消えない。

それで十分な気がしています。

いまは——。