コーヒーと水——体にいい理由と、うまく淹れる三つのコツ

コーヒー

かつての僕はコーヒーに対して、いささか本気だった。

どのくらい本気だったかというと、オーガニックの生豆を取り寄せて自家焙煎までしていた。

青白い豆が届くと、まずは選別だ。虫食い豆やカビた豆、欠け豆、発酵豆、未熟豆などを一粒ずつ手で取り除いていくのだ。これをハンドピッキングという。やるのとやらないのとでは風味がぜんぜんちがう。

ただ手間と時間がかかる。五百グラムだと二、三時間は必要だ。

夫婦の会話がいちばん弾んだ時代

ちゃぶ台に豆を広げ、老眼鏡をかけて黙々と選り分けていく。妻にも手伝ってもらう。傍から見ればもはや内職である。

「これは?」

妻が一粒つまんで僕の前に差し出す。

「大丈夫。コーヒー豆にはもともとそういう黒っぽい溝がある」

「こっちは?」

「それはカビ」

「見分けつかない。むずかしいな」

豆を挟んで、夫婦の会話がいちばん弾んだ時代だったかもしれない。

選別が終わると今度は焙煎だ。専用の機械など持っていないから、フライパンで煎る。じゃらじゃらと豆を揺すりながら、へらを使って中火でじっくりと。豆が色づき、やがてぱちぱちと爆ぜ始める。香ばしいといえば聞こえはいいが、実際は家中が煙で燻される。

換気扇はフル稼働しているもののそれでも追いつかず、カーテンにも絨毯にも焦げた臭いが染みつく。あの頃の我が家は、よその人が嗅ぐと燻製小屋の親戚みたいなにおいだったと思う。

だが見返りもあった。害虫がいなくなるのである。気のせいかもしれないが、ゴキブリの類いが家から逃げ出していく気配があった。コーヒーの香りに包まれた暮らしというと優雅だが、実態は虫も逃げ出す燻煙作戦だったのだ。

本気のコーヒーの味

それで肝心の味はどうだったかというと、すこぶるうまかった。

ふだんコーヒーを飲まない妻が「むう」とうめき声を漏らすくらい、とにかくうまいのだ。煎りたてを飲む直前に挽いて丁寧に淹れる。すると雑味がなく後味すっきりのまろやかな一杯が出来上がる。数時間のピッキングと、燻された家と、逃げていった虫たちの果てに、確かにうまいコーヒーがあった。

味の決め手は豆だけではない

だが、その本気の男があるとき、山の麓であっさり負けを認めることになった。

登山の帰りだった。テントを張って一晩過ごし、下山してきた体は心地良くくたびれていた。一息つこうと思い立ち、道の駅のなんの変哲もない喫茶店に入ったのだ。コーヒーを頼んだ。メニューには豆の講釈ひとつなかったし、何も期待していなかった。

ところが一口飲んで、はっとした。

うまいのだ。澄んでいてやわらかい。山帰りはなんでもおいしいものだが、それにしても妙だ。

ちょうどそばを通りかかった店の女の子を捕まえて、僕は聞いた。

「おいしいですね。豆なんですか?」

突然ほめられた店員はきょとんとしていたが、かまわず根掘り葉掘り聞いていった。豆は? 挽き方は? 淹れ方は? 聞くほどにわからなくなった。豆は大手メーカーの業務用で、ピッキングなどしていようはずもない。淹れ方もごく普通。

消去法で、残ったものがひとつだけあった。

水である。

その土地は名の知れた水どころで、あとで調べると水道の水源に深井戸の清澄な地下水を使っているという話だった。

つまりあの店は、蛇口をひねるだけで極上の軟水が出た。その水を使えば、業務用の豆でもあの味と香りなのだ。数時間のピッキングで目の下にくまを作り、長らく燻製小屋で暮らしてきた僕の横を、道の駅の一杯が涼しい顔で追い抜いていったのである。

誤解のないように言っておくが、豆がどうでもいいという話ではない。質の悪い豆を名水で淹れてもうまくない。豆と水は車の両輪だ。僕が思い知ったのは、もう片方の車輪を忘れていたということだった。

我が家のいまは手抜きコーヒー

それからしばらくは買った軟水でコーヒーを淹れていた。確かにうまい。うまいのだが、ある日突然思った。

——そこまでしなくてもいいな。

それ以来、我が家のコーヒーはこうなっている。

信頼できる専門店で、それなりの豆を買う。ただし生豆ではなく焙煎豆だ。それを飲む直前にミルで挽いてハンドドリップで淹れる。水は蛇口から。幸い、東京の水道水は世界的にも非常に優秀な軟水だ。

以前と比べると、ずいぶん手を抜いた形である。でもこれなら無理なく続けられる。毎朝、豆を挽く一分の小さな儀式——。それで十分うまいし、十分楽しい。

あの頃、僕は一日に五杯も七杯も飲んでいた。飲みすぎだ、体に毒だ、とよく言われたものだ。

でも調べてみたら、話は逆だった。コーヒーには抗酸化力の強いポリフェノールが豊富に含まれている。習慣的に飲む人ほど糖尿病になりにくく、肝臓のがんも少ないという。毎日の相棒が実は体の味方だったと知った日から、一杯のうまさにさらに安心というスパイスまで加わった。

思えば、食事と同じような道をたどってきた。いったん行き着くところまで行ったあと、ちょうどいい場所を見つけて落ち着く。毎日の暮らしは無理なく続けられるスタイルがいちばん強い。

今日も僕は、水道の水を沸かして豆を挽く。ミルの音が台所に響きわたる。ピッキングも焙煎もたぶんもう二度としないだろうけれど、この一分だけはあの頃と同じ本気の顔でやっている。


【おまけ①】焙煎屋マスターに教わった、うまく淹れる三つのコツ

僕が以前、自家焙煎コーヒー豆店のマスターから直接教わった方法である。これを始めたらおいしさが格段に変わった。

ポイントは次の三つだ。

① 自分に合った豆を見つける

コーヒーの味の八割は、焙煎の度合いで決まる。生の豆には僕らが知るコーヒーの香りはなく、煎り加減が風味を生み出す。浅いと酸味が出て、深いと苦味が強くなる。同じ産地の豆でも、焙煎する人がちがえば味はがらりと変わる。

好みの豆を見つけるコツは、酸味、苦味、甘み、香りの言葉を使い、できる限り具体的に好みを伝えることだ。一度買った豆が外れでも、その店をあきらめないこと。数種類試してみて、初めてその店との相性がわかる。

② ハンドドリップで淹れる

味にこだわるなら、やはりハンドドリップがいちばん。手順はシンプルだ。

ハンドドリップの手順
  1. フィルターの底と横の折り目を互い違いに折り、ドリッパーにセット。ドリッパー・サーバー・カップはあらかじめお湯で温めておく。
  2. 粉を入れる(1人分10〜15g。好みで調整)。
  3. 沸騰したお湯で粉全体を湿らせ、15〜20秒蒸らす。
  4. 粉をふくらませるようにお湯を数回に分けて注ぐ。全体の抽出時間は3分以内が目安。

慣れるまで少し練習がいるが、一度コツをつかむと、もうコーヒーメーカーには戻れなくなる。

③ 豆の保管に気をつける

高温、湿気、空気、直射日光を避けて保管。挽いてある豆は開封後1週間を目安に飲みきるのが理想だ。

使い終わったコーヒーかすは、天日で乾かせば脱臭剤に。土に撒けば雑草予防になる。最後まで働く感心な素材である。

【おまけ②】コーヒーの健康機能

コーヒーにはカフェインが含まれ、血糖値をわずかに上げる作用があることはよく知られている。

ただし疫学調査では逆の結果が出ている。コーヒーを習慣的に飲む人ほど、二型糖尿病の発症リスクが低いという報告が複数の研究で確認されているのだ。

理由のひとつが、ポリフェノールの存在。コーヒーには強力な抗酸化作用を持つポリフェノールが豊富に含まれている。

腸内環境への影響も見逃せない。ポリフェノールは善玉菌の餌になり、腸内細菌のバランスを整える働きがある。発酵食や食物繊維と並べて語れるくらいの腸活飲料と言ってもいいかもしれない。

コーヒーが集中力や記憶力を高めることは、多くの研究で確認されている。カフェインが脳内のアデノシン受容体をブロックし、眠気を抑えて覚醒状態を維持する。このメカニズムはよく知られているが、それだけではなくコーヒーに含まれる成分が脳卒中や認知症のリスク低減にも関与しているという報告もあるのだ。

さらに驚いたのは、がんの予防との関連だ。ある研究では、コーヒーを一日六杯以上飲む男性は、進行して命にかかわるタイプの前立腺がんのリスクが約六十パーセント低いという結果が出ているそうだ。コーヒーに含まれるカーウェオールという成分が、抗炎症・抗血管新生作用を持つことも確認されている。

もちろんコーヒーだけで病気が防げるという話ではないけれど、日常的に嗜む飲み物がこれだけの力を持つということは、知っておいて損はないだろう。

 

  • Wilson KM, Kasperzyk JL, Rider JR, et al. “Coffee Consumption and Prostate Cancer Risk and Progression in the Health Professionals Follow-up Study.” Journal of the National Cancer Institute, 2011;103(11):876–884. PMID: 21586702
  • Cano-Marquina A, Tarín JJ, Cano A. “The impact of coffee on health.” Maturitas, 2013;75(1):7–21. PMID: 23465359
  • Cowan TE, Palmnäs MSA, Yang J, et al. “Chronic coffee consumption in the diet-induced obese rat: impact on gut microbiota and serum metabolomics.” Journal of Nutritional Biochemistry, 2014;25(4):489–495. PMID: 24629912
  • Cárdenas C, Quesada AR, Medina MA. “Anti-Angiogenic and Anti-Inflammatory Properties of Kahweol, a Coffee Diterpene.” PLoS ONE, 2011;6(8):e23407. PMC3153489