スパイスを飲んでいない——砂の惑星デューンと知覚の扉

スパイスの棚

家族が寝静まると、僕は決まって台所に立つ。

廊下の電気が落ち、寝室の戸が閉まる音がして、しばらくしてからグラスを取り出すのだ。ウォッカに氷を落とし、レモンを搾り、炭酸をそっと注ぐ。誰も起きやしないのに音を立てないようにしてしまう。

塩辛を容器ごと目の前に置いて箸でつまみながら、配信で二〇二一年版の『デューン砂の惑星』を観始めた。

砂漠の惑星をめぐる霊薬スパイス争奪の陰謀に青年が巻き込まれていく、こんな話だ。映像は美しい。スケールも申し分ない。ところがすぐに飽きてしまった。

タブレットから視線を逸らし、氷が溶けていくのを眺める。どうしてだろう。しばらく考えていた。

リンチ版のデューン

原作は、フランク・ハーバートが一九六五年に発表したSF小説だ。宇宙を舞台にしたこの壮大な叙事詩は、長らく映画化不可能と言われていた。それをデヴィッド・リンチが一九八四年に映像化した。

リンチ自身はこの仕事を気に入らなかったという。編集を自由にやらせてもらえなかったからだ。のちにテレビ放映用へと再編集された長尺版では、抗議のしるしに監督名を「アラン・スミシー」という偽名に変えている。

とはいえ、ふたを開けてみれば、どこをどう切ってもリンチ印の金太郎飴だった。砂漠の惑星にうごめく巨大な砂虫、幻覚めいた映像、人の業を象徴するような登場人物。初めて観たとき、ただのSFではないと直感した。映像の粒子がまぼろしのように揺れ、意識の奥底を何かに撫でられるようなざわついた感じがしたのだ。

デューンとスター・ウォーズ

あの映画が後世に与えた影響は大きい。『スター・ウォーズ』もデューンなしには生まれなかったろう。砂の惑星タトゥイーン、選ばれし者が覚醒していく展開、フォースのマインド・トリック——。ジョージ・ルーカスは多くの着想をデューンから得たのだと思う。

スター・ウォーズの旧三部作は、中学か高校の頃に繰り返し観た。そのたび強烈な高揚感を味わった。デューンも何度かは観た。そこにあるのは高揚でなく陶酔だった。胸を開く物語と奥の扉をそっと押してくる物語——。音楽でいうとビートルズとドアーズのちがいだと、その当時、漠然と感じたことを覚えている。

ドアーズとハクスリーの知覚の扉

ドアーズを聴くとき、僕はある種の陶酔境に入る。ドアーズのバンド名は、ハクスリーの著書『知覚の扉』から来ている。メスカリンの服用体験を綴ったものだ。ハクスリーは幻覚剤の力を借りて知覚の扉を解放し、世界の見え方が根底から変わる感覚を味わった。

田舎の高校生だった僕にはそれが実際にどういうものなのかうまく想像できなかった。けれど七十年代、多くのロックミュージシャンが薬物を常用していたのは知っていた。だから『知覚の扉』を読んでしばらく、扉の先にある世界に強い関心と憧憬を抱いていた。

乱暴に言えば、デューンもスター・ウォーズもそういう知覚の扉の解放がモチーフだ。人間の体の奥底に眠る未知なる能力の目覚めという物語は、神話の時代からの人類共通の夢なのだろう。

スパイスの香り

目の前の棚にはいま、スパイスが十種類近く無造作に並んでいる。塩辛を箸で口に運び、ウォッカソーダを流し込んだところで、新作デューンに飽きた理由がわかった気がした。監督はきっと、スパイスを飲んでいなかったのだ。だから砂漠の向こう側にあるもうひとつの世界の気配が、画面に立ち上がってこなかった。

八十年代のハリウッドの勢いを知る身には、最近の大作映画がどこか霞んで見える。スクリーンの向こうに扉の解放を感じることが少なくなったからだろうか。

シナモンの小瓶を手に取り、甘い香りをひと嗅ぎして棚に戻す。命がけで奪い合うようなスパイスはこの台所にはひとつもない。映画のスパイスは宇宙を開くが、台所のスパイスはただ香りを開くだけだ。

タブレットの画面を消した。砂漠が一瞬で闇に沈み、台所では換気扇の低い音だけが静かにうなっている。