高校生のころ、よくFMラジオを聴いていた。いまの時代と違って、新しい音楽の情報源はFMくらいしかなかったからだ。
ある日、僕はあるバンドの曲に心をわしづかみにされた。テスラの「Love Song」だった。曲が終わって、DJがタイトルとバンド名を言うのをいまかいまかと待ち構えていたが、DJの発音が流暢すぎて聞きとれなかった。
翌日から記憶を頼りに友人たちに聞いてまわった。レンタルショップでジャケットを端から端まで何度も眺めた。ラジオに耳をそばだてた。でもわからなかった。
数週間後、深夜にローカル局で放送していた番組『MTV』でその曲が流れてきた。今度はしっかり確認して、翌日レコードショップへ走った。
アルバムを通して聴いてみた。いいのはその一曲だけだった。
あの音楽にわしづかみにされる感覚は、その後も幾度となくあった。
音楽は、情報ではない
気分が落ちているとき、僕は音楽を聴く。
シガー・ロスのこともある。コールドプレイのこともある。デヴィッド・ボウイの「Ziggy Stardust」を引っ張り出すこともあるし、イーグルスの哀愁系の曲を選ぶこともある。
落ちているといっても落ち方はいろいろで、その日の気分に合わせて選ぶ。理屈で選んでいるわけではない。なんとなく、これだ、と思うものを聴く。
世の中には音楽療法というものがある。
ピタゴラスは「つらいときは明るい曲を」といい、アリストテレスは「気分と同じ音楽が心を癒やす」といった。現代の音楽療法はその両方を取り入れているらしい。
理屈はわかる。でも、どうもしっくりこない。
心が鬱屈しているときに、音楽を「療法」として聴く気にはなれない。音楽はもっと、理屈の外にある何かだと思うからだ。
研究者たちも、音楽療法の有効性にはまだ検証途上の部分が多いと認めている。「効く気がする」と「確実に効く」のあいだには、まだ大きな隔たりがある。
それはそうだろう。音楽が人に触れる場所は、データが届く場所ではない。
言葉より古い何か
人間は、言葉を持つ前から音楽を持っていた、という説がある。
リズムと音で感情を伝え、共鳴し、群れとして生きていた。言語はそのあとに生まれた。だから音楽は、言葉では届かない場所に直接触れることができる。
高校生の僕がテスラにわしづかみにされたのも、理解したからではない。情報を受けとったからでもない。僕のなかの何か古い場所が直接、動いたのだと思う。
瞑想のあとの「We Are The World」
ある夜、瞑想をしていた。
深いところまで下りていった。頭が静まって、余計なものがすべて落ちた感覚——そのあと、なんとなくYouTubeを開いたら、「We Are The World」の収録映像が出てきた。
見ていると、胸の内に強烈にこみあげてくるものがあった。さまざまな人種、さまざまな声、さまざまな歌唱法を持つミュージシャンが、ひとつの歌を歌っている。
美しい、とただ思った。この世界は美しい、と。とめどなく涙があふれてきた。
瞑想でどこかの扉が開いていたからだろうか。普段は通れないような深い場所まで、音楽が届いたからだろうか。言葉で説明しようとすると何かがするりと逃げていく。
音楽は、寄り添ってくれる
音楽で気分を「癒やす」「整える」という表現は、あまり好きでない。どこか能動的、管理的な響きがあるからだ。
僕は音楽に整えてもらおうと思って聴いたことは一度もない。ただそこにあってほしくて聴く。寄り添ってくれる、という言い方のほうが近い。
気分が低迷しているとき、運動して汗をかくと、たしかにすっきりする。梅しょう番茶を飲むと、体の奥から温まる。またそれか、と思われるかもしれないが(笑)、どちらも気分があがる。
でも音楽は違う。落ちたまま、そばにいてくれる。
テスラのアルバム、いいのは一曲だけだったけれど、いまも手元にある。
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