無心だと、なぜかぴったり。——キッチンスケールと大福と、エゴを手放す話

大福とスケール

台所に立っていると、ときどき不思議なことが起きる。

たとえば米粉を140g使うレシピで、ボウルに「このくらいかな」と無心で入れる。キッチンスケールに乗せると、ぴったり140g。

最初は偶然だと思った。でもこういうことが、異常なくらい高い確率で起きる。

大福128g、そしてスーパーのタイマー

妻が大福を三つ買ってきた日のことを覚えている。

娘が「一番大きいのがいい」という。僕が手で持ってみて、一番重いのを選んであげることになった。三個を順番に手のひらに乗せて重量を確かめていく。何も考えずに「これが一番重い。128gだ」といった。

計ったら、本当にそうだった。

あるとき、スーパーのお菓子売り場に「10.17秒ぴったりでタイマーを止めてみよう」というパネルとともに、小数点以下二桁まで計測できるタイマーが置いてあった。娘と試しにやってみた。何も考えず、感覚だけでボタンを押した。ぴったりだった。

家族はもう驚かない。「またか」という顔をする。

ただし、宝くじは当たった試しがない。

なぜ「無心」だと精度が上がるのか

スポーツの世界に「イップス」という現象がある。

これまで何千回と成功してきた動作が、考えた瞬間にできなくなる。野球の投手が突然コントロールを失う。ゴルファーが短いパットを外し続ける。「どうやって投げるんだっけ」と意識した瞬間、体が固まる。

逆もある。「ゾーン」と呼ばれる状態だ。思考が消え、体だけが動いている。判断する前に体が反応している。そういうとき、人間の精度は不思議なほど高くなる。

脳科学的にいうと、意識的な思考は処理が遅い。一方、無意識の処理は高速で、膨大な情報を並列で扱える。「考えすぎ」とは、遅くて偏った処理系が、速くて広い処理系に割り込んでくることなのかもしれない。

はやま

ブルース・リーは「考えるな、感じろ」といいました。あれも脳の構造を突いた言葉だったのかもしれません。ちなみに僕は、無意識には人知を超えた力が備わっているとも感じています。以前、巷で話題となったノンフィクション『オカルト』(森達也著)を読んでから、超能力も実在すると信じている。だから僕のあれもその一種だろうと(笑) ただ、当ててやろうと思うとダメ。だから何の役にも立たない。人は完全に無心のとき、五感や第六感が、脳の計算をはるかに超えた精度で世界を正確にキャッチするのだと思います。

禅が「無心」を求める理由

禅の修行に「無心」という概念がある。

雑念を払い、判断を手放し、ただそこにある状態。茶道でも、武道でも、この「無心」が究極の目標とされてきた。

西洋的な思考では、考えることが「賢さ」のあかしだ。でも東洋の智慧は逆のことをいう。考えすぎることは、むしろ精度を落とす。頭が静かになったとき、人間は本来の力を発揮できる——と。

スケールの話は、そういう古い智慧と、どこかでつながっている気がする。

エゴが幅を利かせると、答えが濁る

宝くじが当たらないのは、そこに「欲」があるからだと思っている。

欲や損得勘定が介入した瞬間、無心は崩れる。自分に都合のいい答えを「選ぼう」とする力が働く。それがノイズになる。

だから重大な意思決定をしなければならないとき、僕は考える材料を頭に放り込んで、いったん忘れることにしている。そこで考え続けてもエゴが幅を利かせるだけだから。

すると翌朝か、数日後か、ふっと浮かんでくる答えがある。そういう答えには、不思議と違和感がない。心の深いところが抵抗や違和感を感じていない。

反対にエゴが出した答えには、どこか名状しがたい気持ち悪さがある。合理的に考えた結果だと頭では思っているのに、奥の方で何かが引っかかっている。

スケールでぴったり140gを当てるのも、翌朝に浮かぶ答えを信じるのも、同じことなのかもしれない。

無心のとき、人間は少しだけ、自分の本来の精度に近づく。

はやま

といっても「無心」は、何も考えないことではありません。エゴや欲や損得を、そっと脇に置くことです。それだけで、不思議と答えが澄んでくるのです。